FC2ブログ

ある一点を多くの目で




 友人のえいすさんが、Twitter上でこのようにつぶやいていらっしゃったところで、その時もいくらか返答させていただいたのですが、考えてみれば戦時中の庶民感覚というのも、あまり馴染みのないテーマだなと考えまして、思いつくままにちょっと書いていってみます。
 とは申しましても、実際の兵士にしても前線であったり基地勤めであったりと赴任先でその体験が千差万別であるのと同様、庶民生活も多岐に渡り、私の読めたもののうちからさらに絞っていては「あくまでも九牛の一毛的記録である。戦争体験は万人万様だ」という述懐を強くせざるをえません。
 ですので、まあ多量の情報網の末端の末端のサンプルのひとつ、気楽な読書ガイドくらいにお考えください。

 そうなりますと、まずは先の「九牛の一毛……」の引用もとである、山田風太郎『戦中派不戦日記』から取り上げないわけにはいかないでしょう。

1:『戦中派不戦日記』山田風太郎
戦中派不戦日記 このブログでも散々紹介してきた一冊ですが、ここ数年のさぼりっぷりから、以前お読み下さっていた方もめっきり少なくなったと思いますので、改めましてかんたんな説明を。
 兵庫県但馬出身の山田風太郎は、大正11(1922)年生まれで、終戦の年の昭和20(1945)年には23歳の、いわゆる「死に時の世代」と呼ばれる青年でした。
 幼少期に父母を相次いで亡くし、母と再婚した義理の父とその後添いとなった義理の母に育てられ、やがて生地から出奔、東京で医師となるべく工場労働と受験勉強に努め、昭和19年に二浪の末、東京医専(現東京医科大学)に合格し、昭和20年にはそこに通う学生の一人となっていました。
 この日記には、その山田風太郎青年が主に東京で目にした、終戦にいたりやがてその後に広がる光景が描かれています。
 昭和20年の日記は、有名無名を問わず、かなりの量が残されていますが、そのうちでもこの風太郎のものを推す理由は、ひとつに著者が、後に忍法帖で全国に名を轟かせるとはいえこの当時では一介の医学生に過ぎないことが挙げられます。
 多く残された公刊日記のうちで、かなり一般市民の視点に近く、さらに23歳という年齢も、それ以前の昭和前期の好況を知らず、見たままの東京市の姿を描くのにプラスとなっています。
 また、書かれた文字数の膨大さも魅力のひとつです。文庫版で500ページを超えるボリュームは優に長編小説2冊分には相当し、目にした街やひとびとの言動を活写してゆきます。
 特に、それだけの文字群をもってしてすら「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」の十文字しか刻みつけ得なかった、玉音放送の日の8月15日を境とする、その前日のある種悲愴な決意を固め8月14日、そしてひとまずの落ち着きを取り戻し、追想としての前日の出来事を文庫のページ数にして20ページにも渡って書きつけていく8月16日は、当時の敗戦を前にしたひとつの胸中を余すところなくあらわにしていると思えます。

 明るい。くらくらするほどの夏の太陽は白く燃えている。負けたのか! 信じられない。この静かな夏の日の日本が、今の瞬間から、恥辱に満ちた敗戦国になったとは!(8月16日)



2:『同日同刻 太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』山田風太郎
同日同刻 続いて風太郎の著作ですが、こちらは職業作家となってからの作品、ですが小説ではなく、公民問わず残された資料を日時で編集し、同じ日の同じ時間で、それぞれのひとびとは何を考え、どのような発言を行い、どう行動したかをまとめたノンフィクション作品です。
「開戦の一日」は昭和16年12月8日、知られる通り真珠湾攻撃の日で、その攻撃の有様を日米両軍の視点から書くのはもちろん、それを知った双方の国民の反応を描いているところにも特色があります。
 そして「終戦の十五日」は昭和20年8月1日から玉音放送の伝えられた8月15日までを扱い、特に広島への原爆投下の8月6日、続き長崎が標的となりソ連による対日宣戦布告の行われた8月9日、そして8月14日夜からの宮城事件および15日の放送を取り巻くひとびとの様子を多く拾い上げています。

 試す日は遂に来にけりあなあわれ天下無双の大和魂(尾崎咢堂)



3:『終戦日記』大佛次郎
終戦日記『鞍馬天狗』の著者として知られる、明治30(1897)年生まれ、昭和20年当時48歳の大佛次郎は、昭和19年9月10日から突如一念発起して日記をつけはじめます。戦後の翌昭和20年10月10日まで続く記録は、鎌倉で過ごした著者の日々を記して余りあるものではありますが、ほぼ空襲も受けず、人気作家としてポツダム宣言受諾を事前に知っていた大佛の視点は、必ずしも庶民のものと並立するとはいいがたいものがあります。
 それでも、この『終戦日記』を第3番目に取り上げるのは、ひとつに丁寧な筆致で描かれた鎌倉の不思議な物静けさがあります。横浜や東京を近くにしながらも、どこか長閑な雰囲気を保つ様子は、あの戦争における民衆の姿のある側面を担っているといえるでしょう。
 それと、実はこちらが大きいのですが、先に紹介した『同日同刻』で本文の最末尾に一部引かれた、昭和20年8月21日の「朝日新聞」に掲載された「英霊に詫びる」をはじめとして、「大詔を拝し奉りて」(昭和20年8月17日「北海道新聞」「中日新聞」「西日本新聞」)などの諸エッセイが全文収録されているためです。
 多くの人の目に触れたこれらの文章を知ることも、また当時の庶民感情を理解するのに大いに助けとなると思えます。

 切ない日が来た。また、これが今日に明日を重ねて次から次と訪れて来ようとしている。生き残る私どもの胸を太く貫いている苦悩は、君たちを無駄に死なせたかという一事に尽きる。これは慰められぬことだ。断じて、ただの感傷ではない。はけ口のない強い怒りだ。繕いようもなく傷をひらいたまま、私どもは昨日の敵の上陸を待っている。冷静にせねばならぬ、我々自身が死者のように無感動にせねばならぬ。しかも、なお、その時、君らの影を感ぜずにはいられようか?(「英霊に詫びる」)


 なお、これらエッセイは文春文庫の新版で含まれたもので、初めて翻刻された草思社版には入っておりませんのでご注意ください。


4:『日本人の戦争 作家の日記を読む』ドナルド・キーン
日本人の戦争 1922年ニューヨークに生まれ、十代の頃から日本文化や文学に興味を持っていた青年は、戦中通訳官として戦線に同行、多くの捕虜と接し、また末期の沖縄戦にも従軍した。
 ドナルド・キーンのその後の日本文学研究者としての実績は、多くの方がご存知の通りです。
 この本は、そのドナルド・キーンが2009年に刊行した、副題通り、太平洋戦争期の日本人作家による日記をテキストとして、当時の日本人の戦争観を探ろうとした営為の書となっています。
 取り扱われるのは、永井荷風、伊藤整、高見順といった純文学畑の面々に加えて、同等もしくはそれ以上のページ数をもって山田風太郎が扱われています。
 同じ1922年生まれとして、生前(風太郎は2001年没)同じ文壇という場所にいながらも、全くといって接点のなかった二人が、戦中の日記を通して邂逅を果たす。それが美談かどうかは、また少々話の異なることだとは思いますが。(この『日本人の戦争』については、以前にコチラで記事にしたことがあります。よろしければ御覧ください)
 それはともかくといたしまして、作家の、という留保がつくのは事実ですが、日記という日時の指定をしやすい文章を扱うことで、当時のひとびとの意識を追体験できる1冊です。
 それだと『同日同刻』と同じじゃないかという意見もあるかと思いますが、なにしろ扱う昭和20年は、現在から遡ると74年前です。隔世の感というよりは、実際に世代がひとつもふたつも違うわけです。
 取り巻く状況はなにもかもが異なっています。なんらかの手掛かりや足掛かりがなければ、当時の感覚に近づくのも難しいでしょう。
 そのために、同じ戦争を体験をしながらも、国の異なる人の目からの戦争史観というのもひとつのきっかけになるのではないかと思えます。

 わたしは論じる対象を概して日記に限ったが、時には日記と同じ頃に発表された新聞や雑誌の記事も使った。しかし後年になって書かれた回想録や小説作品は、その対象に含めなかった。わたしが書きたかったのはあくまで個人の日記についてで、当時のすべての日本人が生きていた状況についてではなかった。わたしは、政治的ないしは文化的活動の全体像を描こうと試みたわけではなかった。しかし極めて多彩な視点と方法で書かれた数々の日記は、日本の歴史の重大な時期における日本人の喜びと悲しみを暗に語っていると信じている。



5:『「終戦日記」を読む』野坂昭如
「終戦日記」を読む 戦後闇市派を名乗る通り、昭和5(1930)年生まれの野坂昭如は、1945年時15歳であり、かつ作家デビューも1963年であるため、同時代的に戦中の記録を残してはいません。
 その野坂昭如が2005年に発表した本書は、先のドナルド・キーンと同じく、作家の戦中日記から当時の状況を再確認しようとした作品です。ただ、キーンと異なり、野坂においは日本人が何を見て、どう思ったかという普遍的な問いかけは薄く、むしろもっと個人的な同調を可能とする記述、人物を探すことに腐心しているようにうかがえます。
 1945年6月5日の神戸空襲で養父(野坂昭如は生後すぐに張満谷という家に養子に出されていました)を失い、養母もまた重傷を負わされ、疎開先の福井県で妹を餓死させた経験を持つ野坂にとっては、あの戦争の体験について、自分と同じように、ひいては自分以上に悲憤してくれる同志を、数々の戦争日記の中に見出そうとしていたようにうかがえます。
 けれども、それも刊行時から考えても60年という時間が流れており、それを埋めるためにところどころで挿入される、野坂自身の戦争体験の追憶を、読者として読むことで、キーンとは別の角度から、現代に生きる私たちにも戦争中の視点を持つきっかけを与えてくれるように思えます。
 ちなみに、文中強く山田風太郎にシンパシーを感じていますが、同じ兵庫県で育った野坂は、もとから大の風太郎ファンでもあります。

 日本人は、戦争を伝えていない。「しようがなかった」で済ませようとしている、それも良い、しかし体験者は、もはや七十歳以上だが、後世に語りつぐべきだ。まさに死なんとするや、その声は、片寄っていようと、「良し」と考える。(まえがき)



6:『流言・投書の太平洋戦争』川島高峰
流言・投書の太平洋戦争 これまでは大なり小なり戦争を実際に体験した人々による著作でしたが、ここからは、間接的な資料として、あの期間の庶民の生活に触れる作品を。
 太平洋戦争期における、市民の目や耳にしたであろう情報や、国民間での「流言」ととらえられたものを、当時の思想統制資料などから分析していった著作です。
 例えば、1941年12月8日の真珠湾攻撃を行った直後の日本時間8時に国民に伝えられた臨時ニュースの原稿などが一冊にまとめられていると便利です。特に、多くを割かれている、当時思想取り締まりにあたっていた特別高等警察の全国からの報告を月ごとにまとめた「特高月報」や、憲兵隊の集めた流言蜚語の取り締まり報告書からの引用は、とても参考になります。
 市井で公言された言葉、公的機関に有名無名で出された投書、個人間での手紙のやり取りなどなどに現れた戦争批判、時には過剰な戦争翼賛も含めて、を検挙・捜査した過程の報告ですが、言論統制のとられていた当時の、うかがいにくい市民の生の声が、こうした形でも残っていたのは貴重といえます。

 長崎地区憲兵隊に於ては憲兵司令部より何等の指令情報に接せずとし隊員をトラックに分乗せしめ同地区管下各市町民に対し「本日のラジオ放送はデマ放送なり、敵の謀略に乗ぜられるな、軍は益々戦略を堅めつゝあり」と口伝せり。之を聞きたる関係市町民に於ては或は万歳を連呼する者或は拍手を以て喜び合う者等ありて戦意の一端を窺われたるも一方に於ては何れが真実なりや疑心暗鬼の状態に陥りたる向き多かりし。(長崎県警察部長「停戦後に於ける諸動向に関する件」)



7:『決戦下のユートピア』荒俣宏
決戦下のユートピア ご存知博覧強記の荒俣先生が、戦争について語った、軽妙洒脱な、これまでの著作とは一味も二味も異なるエッセイ集です。
 上の『流言・投書の太平洋戦争』が為政者側から見た庶民の様子だとしますと、こちらは庶民側からの視点、それも生活誌ともいうべき部分にスポットを当てた一冊です。
「女性のもんぺ」「6年から8年に変更された義務教育期間」「戦時下の貯金」「戦中の生命保険」「喫茶店興亡記」「国内でのお笑い芸人の右往左往」「寿司の工夫」というような、当時の衣食住からメディア、生活環境から庶民の生活をしのばせてくれます。

 戦争は史観ではなく体験として捉え直される。だから、悲劇も喜劇も混在させ得る。ふだんの生活の延長にほかならなかった。これは「歴史としての戦争」と「生き残るための戦争」との同時進行とも見ることができる。生き残るほうの闘いには、スタイルも美学もあったものではない。(まえがき)



 計7冊。年齢も、素性も異なる人々による、戦争の描写です。
 はじめに申し上げました通り、万様のうちからわずかに一握りを紹介したものに過ぎません。
 けれども、そのわずかから、また新たな興味をこの時代に見出してもらえましたら、紹介者としてこれに優る幸いはありません。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)