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吉野孝雄編『外骨戦中日記』のこと

 宮武外骨。1867(慶応3)年生まれ、1955(昭和30)年没。
 明治の三奇人に数えられたジャーナリストで、不敬罪などによる投獄4回、罰金・発禁処置29回にも及ぶ名実ともに反骨の人士です。
 ユーモアをその得意な武器としていたことが特徴に挙げられ、没後二十年以上経った後に再発見されるきっかけとなったのも、ニセ広告やビジュアル面に訴えかけるそのユーモア部分の先見性によるものでした。
 1867年生まれといえば、同じく明治の三奇人に名を挙げられる南方熊楠、トヨタグループの創始者豊田佐吉、夏目漱石、幸田露伴などといった面々がおりますが、そうしたなかで外骨にだけ与えられた特色は、太平洋戦争をくぐり抜けて戦後にまで生を全うしたというところにあるでしょう。
GD_FC.jpg そして、その外骨は、昭和19年9月6日から昭和21年2月13日までの記録を綴った日記を遺していました。
 折しも太平洋戦争最末期で、日本の主だった都市が焼け野原にされ、やがて敗戦を迎えることになる頃です。その時期の日々の記録を留めていたのです。
 それが今年刊行された『外骨戦中日記』(河出書房新社)に収められました。

 私がこの時代の日記で着目するのは、どうした暮らしが行われていたのかと、戦争をどのように見ていたのかという2点に大体集約されるのですが、このふたつを満足させてくれる記述は非常に少ないといわざるをえません。
 なにしろ、文章が非常にシンプルなのです。
 例として無作為に記述を抜き出してみますと、

十一月二十五日 土 大学行三回 警報と解除のため
        読売新聞社 夕食
        夜八時帰宅
   二十六日 日 在宅 午後警報、防空壕試験入り
        塀外し、肥汲取り、畠手入れ
   二十七日 月 青山静海へ鶏、大学、神田瀬木氏ニ面接
        三百円、自動車―エハガキ多数渡す、空襲来、
        暮帰
   二十八日 火 大学―瀬木氏来る 西田へ百円
        二千円、エハガキ渡す、防空壕修理


 ずっとこんな調子です。まったく感想や所感が入り込まない備忘録のメモ書き程度のもので、キーワードの意味を知らなくては内容を汲み取ることさえ覚束ないことになります。
 例えば文中の「大学」とは、東京帝国大学の法学部内に設立された明治新聞雑誌文庫(通称明治文庫)のことです。外骨は戦後までそこの主任を務めており、主に明治大正期の新聞や雑誌を資料として全国各地から収集しておりました。「エハガキ」もその一環で、昭和初期頃までに発行された絵葉書を集め分類していました。
 瀬木というのは、現在まで残る広告代理店博報堂の当時の経営者瀬木博信、博政兄弟のいずれか、もしくは両方を指します。外骨は兄弟の父親瀬木博尚と昵懇で、それどころか博報堂の立ち上げの際に後ろ盾になった縁があり、その子息からも丁重に扱われていたとのことです。途中の金額は、そうした恩ある外骨へ、瀬木家から支払われていた援助金にあたります。
 と、このようなことを教えてもらわないと、この単語の羅列からでは当時の消息をつかむことさえままなりません。
 幸いにして、編者である吉野孝雄は、子どものなかった外骨の甥にあたり、晩年を同じ家で過ごし最期を看取った人物なので、交遊関係や生活環境については解説という形で逐一補完してくれ、かなりの精度で、八十を間近に控えた外骨の暮らしぶりを再構築してくれます。

 ただ、こうした簡を尽くした記載ですから、当時の社会情勢については外部より補う必要があります。
 ところが、吉野氏の解説はこの方面では少々物足らないところがあります。
 ふたつほど例を挙げてみましょう。
 まず引っかかったのは、日記のつけはじめられたまさに当日の、昭和19年9月6日にある「吉野照子来訪―ブドウ酒貰ふ 五円」についてです。
 この吉野照子とは実際には輝子で、外骨の若妻能子の妹にあたり編者の吉野孝雄の母親とのことで、彼女の持参したブドウ酒について、次のように解説を書いています。

『日記』中の「ブドウ酒貰ふ 五円」というのは輝子がブドウ酒を手みやげに持参して、外骨がお礼に五円渡した意味だということは前述したが、ブドウ酒は物資の乏しい昭和十九年には貴重な嗜好品だったことが想像される。輝子はブドウ酒が好物だった。好物を手に入れて姉のもとに持参し、三人で戦時の味気なさを晴らしたいと考えたのだろう。ともあれ、「ぜいたくは敵だ」のスローガンのもと贅沢品のブドウ酒は見つかればやっかいなことになったはずだ。外骨と姉妹三人、暗い時代に、浦安で手に入れた黒鯛を肴にブドウ酒の杯を傾けながら、ひとときの団欒に花を咲かせたことだろう。

 当時、ブドウ酒がぜいたくな嗜好品であったことは、これは間違いありません。けれども、まるでご禁制の品のように書くのは首を傾けざるをえません。
 例えば吉野も引いている永井荷風の日記である「断腸亭日乗」の昭和20年3月7日に「隣組の媼葡萄酒の配給ありしとて一壜を持ち来れり(金二円五十銭)」という記述があります。
 外骨が味わったよりもさらに半年後、一層状況が緊迫していた頃ですが、配給として、つまり公明正大な品物としてブドウ酒は手に入ったのです。
 ですので、いかにも時節への対抗としてブドウ酒を取り上げるのは、やや勇み足な観が拭えません。

 また、戦災はいかな外骨とても避けようがなく、昭和20年5月23日、東京を襲った三度目の大空襲で、当時の自宅は全焼の憂き目に会います。
 ちなみにこの時外骨自身は既に戦火を避けて奥多摩に疎開しており、身辺についてはひとまず被害はありませんでした。
 こうした罹災後の感慨について、吉野孝雄は「哀惜の念でしばらくはそのショックから立ち直れないのではないか」と自らの所感を述べた上で、けれども外骨からはそうした感傷はまったく見受けられないと書き、

 この『日記』で見る限り、外骨は自宅全焼というショックに見舞われた後も、それ以前と変わらず毎日のように好きな釣りに明け暮れていたようなのだ。まるで、何事もなかったかのように。金銭に関してもそうだが、物とか思い出とかに対するこだわりのない人だったように思える。外骨はひたすら今と未来だけを見ているような人だったかもしれない。

 と続けています。
 そもそも外骨の日記の文体が、極端にまで感慨などの意思を排したものであるのは既に書いた通りで、そこからショックを受けているかいないかを見抜くのは至難の業であることは、吉野も遠まわしながら認めています。
 もっとも、自宅全焼という悲劇の前後でその文体に変化が見られないのも事実ですので、内心の動揺があったにせよなかったにせよ、それを表に出さないように努めているという風にはいえます。
 では、外骨のこうした態度が、一個の特異なものであったのか? それにはやはり他の罹災者の感慨と比較してみないといけないでしょう。
 これまでも当ブログで紹介してきた作家内田百間もまた東京で戦中を過ごし、外骨が自宅を失ったのと同じ空襲でやはり住居を焼失しています。そしてその百間も『東京焼盡』という戦中日記を残しており、その昭和20年5月30日の記録に、

 五月三十日水曜日十八夜。水曜日不出社。朝土手を散歩した。朝風がすがすがしく甚だ可なり。今日は省線電車が動いている。時計を合わそうと思って四谷駅へ行って見たけれど電気時計は止まっていた。ぶらぶら歩きながら帰って来る途中考えて見るに、焼け出された人々がさっぱりしたさっぱりしたというのが頻りに新聞に出ているけれど、さっぱりしたという気持ちはその人々によっていくらか違うかも知れないと思う。しかし私は私の都合でさっぱりした事は確かである。

 との記載があります。
 もちろん強がりかもしれません。時局柄、第三者の目をはばかって、わざと何気ない振りを装っているのかもしれません。それでも、焼け出され、全財産を焼失した後に、それに拘泥しない風を装うのは、ある程度まで当時の一般的な態度であったと知れます。
 やはり外骨だけを特別に扱うには、それに足る何かを証明する必要があったでしょう。

 以上2個所はぱっと私で疑問を投げ掛けることのできた部分になります。身内であるが故に、外骨に対して贔屓の引き倒しと思える個所はさらに散見されます。
 もっとも、宮武外骨という明治から昭和にかけて三代に渡って時代を駆け抜けた寵児のものした戦中日記の価値は、だからといって変動するものではありません。
 ただこの日記は、読者の側で、それを読むにあたり、「外骨だから」などのフィルターのかかった目で見てしまわぬよう、別のひとの手になる日記などを傍らに置き、常に比較できるよう心がけることが必要な文章なのです。
 そして、常に時流を疑い、鋭い視線を投げ掛けていた外骨と思えば、こうした日記を遺してくれたのは、自分自身もその疑いの対象から洩れるものではないと、身を挺して示してくれているようにも思えます。
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テーマ : 文学・小説 - ジャンル : 小説・文学

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