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キャラクター談義こぼれ話

SBG_FC.jpg 以前の記事でちょっと紹介しましたが、今年の同人誌即売会「ふたば★学園祭11」でもって、八十堂様の『栞ブックガイド』という合同誌に参加させてもらいました。
 ここ数年注目されることの多い『バーナード嬢曰く。』(作:施川ユウキ)をイメージした本で、一部同書のパロディ同人誌っぽい趣きもあります。紹介も文章あり、マンガあり、小説ありとバラエティに富んでおり、
 委託が開始されているようですので、興味をお持ちの方はこちらで通信販売を御利用いただけます。
 名を連ねさせていただいたこともありがたかったのですが、それ以上に得難く思えたのは、新しい本と出会う機会をいただけたことです。
 やっぱり人間生きていますと、好き嫌いが生じてきます。はっきりと「これは好き」「これは嫌い」と自覚できているものでしたら、なにかの拍子に気が向いて苦手分野に手を伸ばすこともあるのでしょうが、自分のなかでさえ明確化されていないものはそうしたきっかけさえなく、目の前を通ったとしてもやり過ごしてしまいます。いわゆるスルーってやつですね。
 そうした意識以前の状況のものに対して目を向けるのは、実感として年をとるにつれて難しくなっているので、こういう後押しは本当に助かります。
 こういうのは勢いが大事ですので、件のブックガイドを読んだ際に、何冊か衝動買いしておきました。
 そのうちで最近読んでいたのが、小池一夫著『人を惹きつける技術』(講談社+α新書)です。
 タイトルからして、新書という形態からして、ビジネス系の自己啓発書かとつい身構えてしまいます。実際、本文にもそううかがわせる部分も散見されます。
 けれども散見です。おまけに、講演筆記を文章になおしたものらしいのですが、小池先生話が乗ってきたのか、後半ではそういうビジネスマンに向けた言葉はまったくうっちゃられています。
 では、そうしてポイという音が聞こえてきそうなくらいに豪快に打ち捨てられたビジネス書部分以外にはどんなことが書かれているのかといえば、それはサブタイトルの「カリスマ劇画原作者が指南する売れる『キャラ』の創り方」にすべて記されています。
 そう、この本、人の注目を集めるキャラクターを創造する方法を記したハウトゥー本なんですね。

 小池一夫。劇画原作者。さいとう・たかをプロの『ゴルゴ13』、『無用ノ介』でキャリアをスタートさせる。その後独立して小島剛夕作画による『子連れ狼』をはじめ、『御用牙』『実験人形ダミー・オスカー』『クライングフリーマン』『弐十手物語』など時代を超えた数々のヒット作を生みだす。
 後進の育成にも早くから熱心で、「劇画村塾」という漫画家・漫画原作者育成の私塾からは、多くのプロの作家を誕生させている。


 本書を1冊使って書かれているのは、ひとつの作品の構成単位としては最小のものであるキャラクターの創造についてです。
 多くの場合、作品を享受しての感想を求められた場合、ストーリーや内容についてを目的としています。
 例えば読書感想文で本の内容でなく、主人公のかっこよさを字数マックスまで書いてしまっては、0点ということはないかもしれませんが優秀な点をとることは難しいでしょう。
 このように、現在の作品受容は内容第一が前提となっています。読解という点では、これは必ずしも間違いではないと思うのですが、創作方法、作り手側までもがこの慣習に引きずられていないか、と著者の小池一夫は指摘したうえで、創作に最も大事なのは魅力的なキャラクター創造であり、物語はその後から勝手についてくるものだとまで断言しています。
 例えばシャーロック・ホームズであるとか、ハムレット、さらにはソクラテスまでさかのぼってしまってもいいかもしれません。時代を隔てて需要を得る物語には魅力的なキャラクターがつきものです。もしくは、キャラクターの存在が作品の強度を高めるといってもよいでしょう。これには強い説得力があります。

 これを読みまして、ひとつ思い当たったことがあります。
 私は内田百間(正式には門構えに月の正字を使うのですが、PC上では環境依存字のため、間で代用します)という作家がとても好きで、全著作を通読した数少ないひとりとなっています。
 夏目漱石門下として、芥川龍之介の先輩にあたる人物なのですが、脚光を浴びだしたのはずいぶんと遅く、昭和十年代に入って、年齢も40歳を超えてからでした。
 この百間が得意としたのが随筆で、正確に江戸から伝わる随筆と比較するとちょっと逸脱するところが多いのでむしろ現在でいうところのエッセイの元祖みたいなものなのですが、これが『百鬼園随筆』という単行本としてまとまった形となるや文字通り爆発的な売れ行きを見せ、一躍ベストセラー作家に名を連ねていくことになります。
 ここで不思議だったのは、何故『百鬼園随筆』だったのか、でした。内田百間にとってこの本は処女刊行本ではありません。作家として世に問うたのは、それよりも10年以上も前、大正十一年に刊行された『冥途』という短編小説集によってです。
 この『冥途』収録中のいくつかに対して芥川龍之介が書いた所感が残っています。

 この頃内田百間氏の「冥途」という小品を読んだ。「冥途」「山東京伝」「花火」「件」「土手」「豹」等、ことごとく夢を書いたものである。漱石先生の「夢十夜」のように、夢に仮託した話ではない。見たままに書いた夢の話である。出来は六編の小品中、「冥途」が最も見事である。たった三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、気もちのよいPathosが流れている。[中略]しかし人の話を聞けば、「冥途」の評判はよくないらしい。たまたま僕の目に触れたある新聞なぞにも、全然あれがわからぬらしかった。これは一方現状では、もっともな心もちがする。同時にまた一方では、もっともでない心もちもする。

 芥川龍之介という名前を取っ払ってしまえば、ここで述べられている『冥途』評は、「夢のような話を書いた作品集」くらいの意味しか残りません。
 そしてこれが100年近くを経た現在でもあまり変わりなく行われている『冥途』評価の最も典型的な例なのです。
 それだけの時間を得ても、やはり『冥途』は「夢みたいな話を集めた作品集」くらいの言葉しかほとんど持っていません。
 誤解のないようにいっておきますと、私自身も『冥途』を偏愛することは人後に落ちません。十八の時に出会って以来全編を何度読み返したか知れませんし、一応専門家を名乗れる自負もあります。敬慕のあまり同じ題名で同じ作品数、同じ収録内容でパロディの同人誌を出したくらいです。
 それでも『冥途』が語りづらい作品であるのには違いありません。何故なのか。それは、『冥途』が内田百間にあまりにも肉薄している作品だからでしょう。
 ここで『冥途』と『百鬼園随筆』に収録された作品をくらべてみれば、小説とエッセイという差こそあれ、どちらも内田百間と思しき「私」を主人公としている点で共通しています。
 にもかかわらず、日常で起こる出来事を描いた『百鬼園随筆』の諸編よりも、現実離れしておよそ夢魔的な現象が真綿で首を締めつけるように出来する『冥途』の収録品の方が、ずっと生々しく百間という作家の息吹きを伝えてきます。
 おそらくそれが「私」のキャラクター化の濃度の差なのでしょう。いってみるならば、どこまで生身の私から切り離した「私」を文章上に表すことができるか、です。
『百鬼園随筆』の百鬼園とは、百間のもじりで、別号でもあるのですが、作家自身によりかなり早い時期から、百間と百鬼園は別の個人であることが示唆されています。さらにこの前後の時期に、百間は百鬼園以外にも別の人格を作品内で登場させています。
 そしてこれが最も強烈な形として表れるのが「七体百鬼園」(『菊の雨』収録)です。ここでは作家は七人の個人に分裂して、座談会のような体裁で得手勝手な会話をくり広げるのです。おまけにその中にはしれっと本名である栄造氏も含ませています。
 作家と自分の創作キャラとの対話といえば、いまでは黒歴史扱いですが、こちらは昭和十四年に発表されたもので、今からざっと80年も前の作品と考えれば、そうした言葉も慎まざるをえません。
 百間の行った操作は、実際の「私」であっても文章の上ではキャラクター化された別個の人格となるという自覚と、その徹底でした。
 だからこそ、いくら実際に起こった事件や事故を扱っても、キャラクターである「私」を見舞うのであるなら、読者も安心して読んでいられるのです。
 この安心が口を軽くさせ、『冥途』ではありえなかった紹介や感想を容易にして、『百鬼園随筆』をさらに読みやすい位置に運びえたのでしょう。こうして洛陽の紙価を高からしめるほどの成功を導いたその根本には、やはりキャラクターがあったのではないか、そんなことを考えていました。

 もちろん、この本さえあれば、だれだって人気クリエイターになれるというものではないでしょう。
 ただ、ひとつの方法論として読んだ場合、強いオリジナリティを放っているのは確かですし、なによりキャラクターをテーマにして360度語りつくしている本というのもとても珍しく、それだけで読んでみるのに十分な理由のあるように思える一冊でした。

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テーマ : 文学・小説 - ジャンル : 小説・文学

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