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動物との交わりについて

 渡辺一夫の『泰平の日記』は、1515年1月から1536年8月までの記述を残したパリの無名の一市民の日記を手掛かりとして、近代初頭のフランスの精神史を描く著書ですが、そのなかで、次のようなエピソードが紹介されています。

 また、月日は不明ですが、恐らく一五三三年の末に、ブロワの町で、獣姦sodomie常習のイタリヤ人が火刑に処されているという記録が『日記』に残されていますが、その記述にすぐ続いて、翌一五三四年の一月、フィレンツェ生れのイタリヤ商人で、同じく獣姦常習者が捕えられて、パリで裁判にかけられて、罰金を支払い、辛うじて生命をまっとうしたという記録も見られます。


 この獣姦が死罪、それも生きたまま火にくべられる残酷な火刑をもって罰せられたというのは、三輪山伝説や安倍晴明の信太妻説話、さらに時代がくだって落語の「お若伊之助」などを持つ日本人からすると、少なからぬ文化的な違和に戸惑いを覚えずにはいられません。
 そもそもキリスト教における獣姦の禁止は、旧約聖書『レビ記』第18章23節「あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである」を嚆矢とします。
 例えば日本におけるかつての肉食の禁止などを含めて、宗教的な規範というのは、いずれそれが根付き受け継がれていく必然があったもので、その可否は、時代も地域も異なる人間が云々したところでしかたのない点も多いです。
 ただ、そうした罪に対するひとびとの感性の推移を調べてみることは、これは後世を生きる私たちにとりましても、無駄とばかりはいえないと思います。

 中世ヨーロッパにおきましては、必ずしも刑法が一般的に普及していたわけではなく、多く、罪はキリスト教の司祭が施す赦しをもって贖われていました。ただし、もちろん罪を告白して、それをもって全てが許されるというわけではなく、それに代わる償いを行うことで初めて赦しが認められていました。
 Aという罪にはBという償い、という風に、過去から連綿として引き継がれてきた贖罪の判例集は、やがて本の形にまとめられ、写本の形式で各地の教会に流布していきました。これは「贖罪規定書」と呼ばれ、司祭のアンチョコのように使用されていました。
 西暦1000年頃に編まれた同種の規定書には、例えば次のように書かれています。(阿部謹也『西洋中世の罪と罰』より)

 第一章 戦時でないときに、なんの必要もなく、ただ相手の物を自分の物にするために、意図的に人を殺したことがあるか。もし殺したのであれば、続けて四〇日間、水とパンだけで暮らさねばならない。人びとがカリナ(quarantena=四〇日間)と呼んでいる期間である。それを七年間続けて守らなければならない。


 このように告解によって明かされた罪に対する罰を与えていくわけです。
 獣姦に通じる個所は第52章にあり、そこでは、

 お前は、妻か妻以外の女と犬のように背後から結合しなかったか。もしそうしたのなら、パンと水だけで十日間の贖罪を果たさなければならない。


 とあります。(阿部謹也『西洋中世の男と女』)
 あくまで獣を真似ての交わりについての罰ではありますが、殺人と比較してみればかなり軽いもので、仮に当の動物と性向を行ったとしてもまさか同一視されることもなかったろうと想像されます。
 また殺人での贖罪規定を見てもわかります通り、この時期の罰は必ずしも死は死でもって贖われるという考えではなく(死刑がなかったわけではもちろんありません)、その罪を消去することに力を注がれていました。
 だとすれば、これから近代の発生までの間に、これらふたつの罪が交差するような意識変化が起こっていったと考えるべきなのでしょう。

 まず考えられるのは動物に対する視線です。
 前掲の『レビ記』にも書かれていますが、キリスト教において死んだ動物は汚れという観点は初期から持たれておりました。
 けれども、中世から近代において、それが飛躍的に強化されていくことになります。
 拍車を掛けるのに重大な役割を担ったのは魔女裁判です。中世から近代にかけてヨーロッパでヒステリックにくり返された魔女狩りで、多くの動物は悪魔や魔女そのものの変化した姿であると考えられるようになっていきました。
 恥辱の接吻と通称呼ばれる、悪魔への恭順を示すためにその臀部にキスをするという行為が絵に描かれ、サバトの光景として文章に表されたりしているのですが、ローマ教皇グレゴリウス九世のものとされる1233年の書簡に次のような場面があります。(種村季弘『悪魔礼拝』より)

 まもなく彼らは宴の席に就き、食事が終ると席を立ったが、この時、この種の集会にはどこにもあるのがつねの立像の蔭から、中位の犬ほどの大きさの、尻尾をピンと立てた真黒な猫が後向きに立ち上がり、まずはじめに新入会員が、つぎに長が、つづいて全員のうちそれにふさわしい完全者たちのみが、位階の順にその臀部に接吻をする。


 ここでは悪魔の化身として黒猫が登場させられています。
MA.jpg さらに時代がくだり15世紀後半にコンスタンツで刊行されたウルリッヒ・モリトールによる『冷酷な女預言者について』という書物では、山羊と鳥と犬に顔を変えて枝にまたがり空を飛ぶ魔女の姿が描かれ、魔女と動物(そして悪魔)のイメージの等価視が進んでいることがわかります。

 そして罪と罰の関係の変化も考えにいれないといけません。
 ご存知の通り、16世紀はマルティン・ルターの登場による宗教改革の主張が声高になり、やがて旧教カトリックと新教プロテスタントの対立が激化していく発端の時代にあたり、年の改まるごとに血なまぐささが強められていく期間でありました。
 この時期の宗教統制は甚だしく、特にフランスでは、嘗ては苦笑でたしなまれる程度であった聖者への冒涜的な言辞ですら、訴訟の原因となり、やがて酒に酔って聖母マリアの悪口をいったことが原因で火刑台に消えるひとびとさえ出すことになっていきました。
 そうしたなかでは文字通り悪魔と結び付く行為が容易に許されるわけもなかったのでしょう。

 つまり動物への眼差しを重く、そして死刑という最も重いはずの罰への眼差しが軽くなっていった結果、獣姦という罪が死をもってしなければ贖えないというところにまで至ってしまったというところなのではないでしょうか。

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テーマ : 雑記 - ジャンル : 小説・文学

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