FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「水木しげる出征前手記」のこと

 武良茂は大正11(1922)年3月8日生まれですから、昭和17(1942)年には二十歳を迎えていたことになります。
 高等小学校を卒業後、美術学校、園芸学校、工業高校と数々の学校をドロップアウトし、日がな一日をぶらぶらと暮らし、唯一洋画研究所に絵の勉強に通うのが日課となっていたこの青年こそが、後に水木しげるとして知られることになる人物でした。

 今月発行の雑誌『新潮』にて、その水木しげるとなる前の武良青年が書き記した手記が公開されました。
「水木しげる出征前手記」と題された文章について、その成立と発見については、以下のような編集部による注釈が添えられています。

 本手記は、二〇一五年五月末、漫画家・水木しげる氏(九十三歳)の書簡を整理していた家族によって発見された。水木氏はこの原稿の存在を記憶していなかったが、年月日の記述からラバウルへ出征する昭和十八年の前年、昭和十七年十月から十一月(満二十歳時)にかけて執筆されたと推測される。
 四百字詰原稿用紙三十八枚に書かれた原稿は、戦後に紐で綴じられており、今回の掲載に際しては、日付や綴じた冊子の順番を参照して構成した。(後略)


 手記は日付けがまず冒頭に付され複数の短文が添えられる日記形式で綴られています。
 内容的にみて、もっと長い原手記がありそこから戦後意図的に抜粋されたという可能性は低く、一時的な衝動から内心の吐露と整理のために短期間集中して書き記されたものと、日常的な光景や会話の記録がほぼ欠如しているところからも推測されます。
 本文を開いてみて一読驚かされるのは、書かれた文章が、現在私たちの知る水木しげるの飄々としたイメージからはかなり遠い、硬く棘のある文体を持っていることです。(引用に際して旧かなを新かなに、一部漢字の送りを改めています。以下同様)

 仏教のような唯心論には反対だ。
 人間は心と肉とよりなる。もと哲学と自然科学は同じものであった。これは当を得ている。真に哲学をやろうとすれば自然科学もやらなければならぬ。
 仮に死を研究するにしたって、生物学的にも精神的にもみなければならない。まあそれはよいとして、吾の目的と言うのは芸術家である。何故と言うに芸術にはこれでよいという限界がないし、また俺は芸術を捨てることが出来なかったからだ。


 いかにも青年らしい気負った文章であり、広大無辺とした原野に放り出された人間の懊悩と遠望が伝わってきます。
 けれども、そうした青春らしい熱意や目標というのは、これまであまり水木しげるの原像として語られてこなかった部分のように思われます。
 では、この手記は、後の水木しげるによって韜晦された、活気に溢れた青年時代を提示し、ひとりのどこにでもいた二十歳の若者を取り出してくるのかといわれると、それもまたうなずきにくい部分もあります。
 書かれた文体はともかくとして、中身はやはりわれわれの知る水木しげるを彷彿とさせるとことがあるからです。

 では、その主となる内容はどのようなものかといえば、「自分はどのように生きるべきかという自問自答」となるでしょう。
 冒頭の二日と書かれた日の記述で、早々に次のような文章が現れます。

 自我を否定する時は今だ。
 この環境がこぞって吾を滅さんとする時、泣かずわめかず自我を否定して怠らざるべく努めるのは今だ。
 耐えるのは今だ。
 自我はこうした事件(召集令)にその強さを発揮する。


 このカッコ内の部分は編注かとも考えたのですが、他の注とは明らかに書式が異なるため、原文によるものと判断しました。
 いきなり主張が剥き出しの文章で、意図を汲み取るのに苦労させられるのですが、順番に考えていくならば「個性や自意識が時代情勢から脅かされる現在、敢えて自我を殺して他者と合一してやり過ごすべきだ」と言っているように考えられます。
 召集令という男子であれば避けられない事態も、自我が邪魔をしてそれを撥ねのけようとしてしまう。そうすれば、かえって自らの生命までも危機に陥れかねない。だからこそ、自分を一度は殺してでもここは耐え忍んで生き抜かないといけない。
 そう読めるのですが、ただ正直申し上げて、この手記での「自我」の用法はかなり独特です。他人からかくあるべしと規定されている自身という風に読める個所もいくつかあります。
 それでもひとまずは召集令という現実に対して、自意識を抑えて生きていこうという点は伝わってきます。
 もっともこれで納得したかというとそうではなく、自意識の所有に対する葛藤はこの手記全体を通したテーマになってきます。

 ここで、一度話はそれまして、この武良茂青年のおかれた昭和17年10月がどういう時期にあたるかを見てみましょう。
 昭和16(1941)年12月8日、周知のごとく真珠湾攻撃の敢行された当日であり、ここから日本はそれまで行っていた大東亜戦争の戦線をさらに東に拡大し対米戦争に突入していきます。
 緒戦の数カ月こそ優位に進められた戦争も、翌年昭和17年4月のミッドウェー海戦において日本は主力であった空母四隻を喪失する痛手を被り、情勢が思わしくなくなっていきます。
 その後、7月に入り、米豪の関係を分断すべくオーストラリア大陸から見て北東部の海中にあるガダルカナル島において展開されていた基地建設に対し、アメリカ軍より爆撃が実行され、やがて8月には米軍が島内に上陸、後にガダルカナル島の戦いと呼ばれる激戦がくり広げられます。
 他方、補給の伸びきったガダルカナル島への支援を行おうとする日本海軍と阻止を目的としたアメリカ海軍との間で三度に渡る海戦(第一次~第三次ソロモン海戦)が行われます。
 そして12月31日、とうとう日本はガダルカナル島からの撤退決意を余儀なくされます。
 明けて昭和18(1943)年4月18日には連合艦隊司令長官山本五十六が視察に向かったブーゲンビル上空にて撃墜され戦死。
 5月29日、北方のアラスカからシベリアに連なるアリューシャン列島にあるアッツ島の守備隊が全滅。
 徐々にではありますが、日本の制海制空圏域が狭まっていく過程にあったものの、特にミッドウェーでの大敗は報道されなかったこともあって、国内ではどこかしらきな臭い空気を漂わせながらも、まだ戦勝ムードを残したまま冬支度をはじめていた頃にあたります。

 ただ昭和16年には人口政策確率要項(20年間で日本の人口を1億人まで増やすという倍増計画にも似た無茶な政策)が出され、さらに昭和17年には産めよ増やせよの良妻賢母を称揚する家庭教育振興協議会が「家庭母の戦陣訓」を発表、そして昭和18年には学徒出兵が開始と、国民皆兵の基礎は既に作られており、当時二十歳のまさに死に盛りの年頃であった青年にとって、身に迫るものとして兵役は立ちふさがっていました。
 強制的に自らの命を摘まれる時代において、水木しげるは叫びます。

 毎日五万も十万も戦死する時代だ。芸術が何だ哲学が何だ。今は考える事すらゆるされない時代だ。
 画家だろうと哲学者だろうと文学者だろうと労働者だろうと、土色一色にぬられて死場へ送られる時代だ。
 人を一塊の土くれにする時代だ。
 こんな所で自己にとどまるのは死よりつらい。だから、一切を捨てて時代になってしまうことだ。
 暴力だ権力だ。そして死んでしまうことだ。


 こうして時代に泥み、自分を殺してしまおうと一度は決意するのですが、けれども、同じ文章内でその末尾に、

 泣く余裕もない。青ざめて戦う事だ。勝つ事だ。
(これは国家の事ではなく個人の事だ)
 将来は語れない。考えられない。後は後の事だ。
 過去も未来もない。現在をただ戦う時代だ。


 と続けています。これは明らかに、前文と矛盾し、自らを取り囲む時代という環境と同一化することをどこまでも拒む意識が現れてきます。
 この混乱は次第に整理され、17日の日付けのつけられた文中で、かなり明確にまとめられることになります。

 人と生まれた以上は矢張り自分と言うものを持たなくてはなるまい。いや、自分の道と言うものを……
 どんなに苦しくてもいいじゃないか。戦おう。戦おう。
 戦って戦いぬこうではないか。そうしたら道もひらけよう。
 不安が恐ろしいか。混乱が恐ろしいか。死が恐ろしいか。
 恐ろしければ勇気を持って、苦しければ忍耐を持って。


 また、26日の「悲しかろうと苦しかろうと自分の道に向かって勇ましく、あくまでも勇ましく戦おうではないか」と書いています。
 この時、水木青年の「戦う」ということは、現在行われている戦争に参加するということではなく、そうした戦争におもむくことを強いる境涯や周囲の圧力との戦いを指しているのでしょう。
 自意識を守るために、時代環境ともあえて決別して、どこまでも戦い抜こうという気概は熱く、青年特有の気迫に満ちています。
 ただ、ここで気になってくるのが、青年の戦う相手です。
 水木青年は声高らかに何度も手記で戦おう戦おうと訴え、自らを鼓舞していますが、具体的な戦う相手は出てこないのです。文脈からいえば、おそらくそれは時代であり、自らを取り巻く環境です。
 後年に出版された自伝的文集『ほんまにオレはアホやろか』において、やることなくぶらぶらとしている水木しげるを周囲が非国民だと触れまわり、仕方なくやりたくもないことをやらされた旨が書かれていますが、青年の闘争相手というのはこうした直接自らにかかわる周辺の人々やその考えであったと思われます。
 というのも、水木しげるの文章のなかには、おそろしいほどに国家に対する意識が乏しいからです。「国家」という単語が手記のうちに登場するのはたった一ヶ所、既に上で引いた部分のみです。日本という文字もどこにも出てきません。
 その他の部分でも、意識が国家という存在に向けられている様子はあまりうかがえません。
 国の現在行っている戦争の意義や、その行く末がどうなるだろうかなどに対して、水木青年はあまりにも無関心なのです。
 これは当時を思うと少なからず異例なことに見えます。
 例えば、水木しげると同い年にあたる山田風太郎が、奇しくも同じ昭和17年に書いた日記を残しておりまして、その11月26日に次のように書いています。

 日本は、果たしてこの戦争の終局に勝つであろうか? 余りに冷ややかな眼をこの祖国の運命をかけた大戦争に注ぐことは責められてしかるべきであるが、勝たねばならぬ、勝つにきまっているという単純な断定は少くとも自分を昂奮させない。
 しかし、現在までのところ、日本は彼等に勝っている。しかし、ベックの如き観方を根本的に粉砕するためには、戦争に於て最後まで彼等を敗北させる一方、その血の勝利を、克己の中に隠し、弱々しい虫のいい他の東洋人を尊重して、燦爛たる亜細亜黄金時代を創造せねばならぬ。
 日本は、世界史に未だ嘗てない唯一の犠牲的民族となることによってのみ、永久に輝かしい不滅の名を以て想起されるのだ。(『戦中派虫けら日記』)


 冷静を装いながらも、国の動向を熱意ある眼差しをもって語る、やはり血気に満ちた一節です。
 後にこの国家意識と自意識の相容れなさに苦悩していく山田風太郎ではありますが、少なくとも国家というものが常に意識に潜んでいて、それが行動の幾分かを規定しているのはまちがいなく、多かれ少なかれ当時日本に住んでいたひとびとのだれもが抱いていたものであるのは間違いないと思われます。
 ところが水木しげる青年にはそれがぽっかりと欠けている。
 手記の中で他に「国」という字が使われた唯一の個所が、

「地の塩となれ」とは名言だ。真の基督教徒は、地上の塩粒しかない。世が立っているのは義人がいるからだ。小数の義人こそ地の塩、即ち、神の国を造るものである。
 神の国とは人類の理想である。その理想を現在から未来へ渡すのが義人である。
 そうして人類が神の国を造るまで伝え伝えるのが義人なのである。義人とは基督教徒であるが、私は思う。真の基督教にあらざれば塩にあらずと。


 です。
 神の国が成立するのはキリスト教徒によるところだけだ、といってのけてしまう大胆な発言です。
 毎朝工場で祝詞のような文章を読んで安全祈願を行っているのを、微妙な顔をして記述している山田風太郎と大きく異なります。
 ここに批評はありません。少なくとも神国日本に対しての揶揄や批判がこめられた形跡は一切ありません。水木青年には最初から眼中にない日本という国ですから、そこを批判することなどできないのです。ただ身近や目についた俗流のキリスト教徒に対する批判にしか届きません。

 はたして水木しげるが意識的に国家から目を逸らし、それを常態化させたのか、はたまた天然によるところのものなのか、それはこの文章からはわかりません。
 けれども自身の帰属する場所から距離をとり、自身との関わりを放棄することによって客観化するという、後の水木しげるの表現の方法の根源が、この手記からも既に萌芽として現れているのは事実です。
 文体こそは現在のイメージとは異なるものの、やはり人間水木しげるという巨大すぎる姿を、とらえるためには欠かせない資料であると思えます。

スポンサーサイト

テーマ : 雑記 - ジャンル : 小説・文学

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。