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蘭と狐と藍と

 以前に紹介させていただきましたが蕪村の「雉子啼くや眠りの森の朝ぼらけ」という句に強く惹かれまして、句集をパラパラと飛ばし読みしておりますと(もっとも、上の「眠りの森の」は私が探した限り見当たらないのですが)、とある句に行き当たりました。

蘭夕狐のくれし奇楠をたかむ(らんゆふべきつねのくれしきやらをたかむ)


 奇楠は伽羅と同義で、香木の名前です。
 私の引きました尾形仂校注による岩波文庫版『蕪村俳句集』では、この句に注が付されており、「蘭と狐は付合」とあります。
 付合といいますと、和歌に詳しい方は連歌における五・七・五の長句と七・七の短句を思い出されるでしょうが、ここでは例えば梅にうぐいすなどのように連想させるお約束のようなものと考えるべきでしょう。
 この狐に蘭がつきものとなったきっかけは、白楽天という名でも知られる唐代の詩人白居易の「凶宅」という漢詩です。
 長安にはかつて盛名を誇った人びとの家が、いまや多くその没落とともに廃墟として打ち捨てられていると場景を描き、

梟鳴松桂枝    (ふくろうは鳴く 松桂の枝
狐蔵蘭菊叢     狐は隠る 蘭菊の草むら)


 と、本来ならば気品高い植物としてはやされる松や桂が枝をなす木々の間、蘭や菊の生い茂る草の内には、不吉な動物の代表ともいうべきふくろうや狐が棲んでいると嘆いています。
 世俗的なものと高貴なものとの対比のおもしろさが人口に膾炙するにつれ一般化していったのでしょう、以来、狐と蘭の取り合わせが自明のように用いられるようになっていったとのことです。

 ただ、ふくろうと比べて、狐は『日本霊異記』から既に玄妙な記載がある通り、一概に害獣と決めつけてかかるわけにはいかないのは、これはみなさんの持つ狐のイメージとも合致するように思えます。
 このあたりの事情は、海を越えた向こうでも変わらないらしく、同じ白居易の詩でも「古冢狐」では妖狐の業を描きながらも、どこか憎みきれない風情をたたえています。

 なんだか話がすっかり脱線してしまいましたが、私がそもそも蕪村の句に目がいったのには、ふたつ理由があります。
 まず狐と蘭の取り合わせで思い出したのが、敬愛する内田百間の短編「葉蘭」です。
 大きなお宅の庭によく植えられている、地面から直接笹をそのままスケールアップしたような葉を密に群生させている植物をご存知じゃないでしょうか。あれが葉蘭です。
 百間の作品では、ひょんなきっかけから飼うことになった狐が庭や床下を闊歩するなかで、夜中に光る目をこの葉蘭の合間からのぞかせていると、非常に印象的に用いられています。
 このブログでも以前に取り上げた記憶があるのですが、単行本で2ページほどの掌編ながら情景描写に徹しながらも、不思議と立ち上る鬼気をはらむ戦前期の百間を代表するエッセイのひとつです。
 ところが、これ、文章の八割からを費やしている狐のくだりがまったくのフィクションなんです。百間自身は狐などもちろん飼ったことがありません。
 では、ただいたずらに読者を煙に巻くためにそんな文章を書いたのかというと、それも当てはまらないでしょう。
 およそ、内田百間という作家ほど、読者に重きを置かないひとも珍しいといえます。
「自分の文章を読んでどんな感想を持ってもらおうと自由だが、私はそんなつもりで文章を書いたわけではない」
 とふてぶてしくいいはなって涼しい顔をしているようなくそじじいです。
 ならばどういう意図のもとで狐を持ち出したのか。それこそがタイトルが示している通り、庭に植えた葉蘭を活写するためです。葉蘭を印象的に写すために、その何倍もの紙幅を費やして狐の姿を描いてみせたのです。
 これは私の想像じゃありません。百間自身が「作文管見」というまた別のエッセイで種明かしをしているのです。
 このエピソードは百間という作家のひたむきさとしたたかさを同時に表していて、とても好きな部分なのですが、どうしても引っかかっていたところがありました。
「どうして狐なんだろう?」
 詩歌のことにはまったく不調法な私は、蘭と狐の相関など知るよしもありませんでした。
 しかし、夏目漱石門下の、つまり正岡子規にも至る内田百間は、俳句にも通じており、句集を数冊刊行している人物でもあります。また「南山寿」など漢詩にかかわる短編もいくつか発表しています。
 その百間からすれば、狐と蘭の結びつきは当然くらい当然の話だったのでしょう。
 十年来の疑問が解けるとともに、俳句を通じて漢詩にいたる、文学の命脈を思わず感じた小さな発見でした。

 もうひとつは、シューティングゲームを中心とした東方Projectの登場人物である八雲藍(やくもらん)についてで。
 九尾の狐をモチーフにしたといわれる、このキャラクターの名前がどうして「藍」なのか。これまたなんとなく引っ掛かってはいたものの、特に追求することもなく過ごしてきたのですが、思いもよらず取っ掛かりを得ました。
 これも狐と蘭からの連想でランという同じ読みを利用したんじゃないか、と。
 上でも挙げましたが、白居易の「古冢狐」では狐は女性に化けて人を迷わせると詠んでいますが、そこで対比されているのが褒姒と妲己で、このふたりはどちらも日本では九尾の狐の変化した姿と知られた人物です。
 ランという読みが白居易を中心として狐と結びついて回転しているのです。
 もちろん偶然かもしれませんが、十年以上も前に初めてプレイした東方Projectのゲームだけに思い入れの強い『東方妖々夢』のキャラクターに、今更ではあるものの一歩考を進めることのできた楽しさが、つい柄にも合わず詩歌に目を留めさせました。
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テーマ : 雑記 - ジャンル : 小説・文学

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