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鯰絵からはじまる


 長く本屋に通っておりますと、直感的に「あ、この本は、今買っておかないと、次にいつ読む機会がくるかわからないな」と足を止めさせられることがあります。
Namazue.jpg コルネリウス・アウエハント著『鯰絵 民俗的想像力の世界』もそんな風にして出会った一冊です。
 岩波文庫の、それも白帯など、私からは縁遠いこと甚だしい分野の一冊で、まして名前だけ読んでもどこの国のどういう著者によるものなのかさっぱりわからないとくれば、普段なら書架の前を素通りして一顧だにせずにその存在にすら気付かなかったでしょう。
 たまたま表紙が見えるように展示されていて、たまたま神様(鹿島明神と知るのは本文を読んでかなりしてからです)が要石を持って大なまずを押しつぶしている図像に惹かれて、たまたま前半の図画の豊富なあたりに目を通して、たまたま持ち合わせのうちで一冊購ってもさほど懐が痛まない状況であって……様々な偶然が重なって初めてレジにまで運んだというのは、これはまったく本書の持つ力のせいであるというほかありません。

『鯰絵 民俗的想像力の世界』は、日本の江戸時代、安政二年(一八五五年)旧暦十月二日に起きた大地震を機縁にして、大流行した鯰をモチーフにした一連の版画をテーマに、日本における民間信仰の構造を描こうとした論文です。
 発表されたのは一九六四年、今から半世紀も前の、ある種古典としての色合いも持ちつつある書物といえるでしょう。
 著者のコルネリウス・アウエハントは、一九二〇年にオランダに生まれた文化人類学者で、主に日本を研究の対象に据えています。短期間ではありますが、日本へ留学した際には柳田国男の門下に入ったこともあり、その敬慕は本書の様々な個所に散見されます。
 日本文化に並々ならぬ傾倒を示した著者による、学位論文が本書であるだけに、なんとなく難しそう、おまけに索引まで含めれば六百ページを優に超える大部とくれば、伸ばしかけた手も自然引き戻したくなるのもいたしかたないところがあるかもしれません。
 けれども、それはちょっともったいないです。
 たしかにこの本はたやすいものではありません。特に後半部を占める、レヴィ=ストロースの影響を多分に受けた構造人類学的アプローチの数章は、半世紀を経た現在からすると時代的な制約もあり、いたずらに問題を複雑化しているように思える個所も少なくなく、門外漢からすると歯が立たないどころかとっかかりを見つけることさえ至難のわざという難所もひとつやふたつではありません。
 でも、それならば、自分の興味関心にだけ引きつけて、その個所だけに目を通してしまえばいいのです。
 そして、そうした読み方をしても、決して色あせることのない魅力が、この本には詰まっていると思えます。

 すごく大雑把に要約しますと、第一部は鯰絵の成り立ちと分類を行い、擬人化された鯰の意図や、それを江戸の庶民がどのように消費していたかを語っています。このあたりは日本人以外の手で書かれているのが幸いして、日本の学者でしたらあえて飛ばしてしまうような基本的なところから仔細に説明してくれているので、初めて鯰絵に向き合う人にもとっつきやすくなっています。
 第二部はそうして分類された鯰と、それを抑える役目としての要石に着目し、それぞれがもとは水と石の象徴であったという観点から、日本の伝承や民話における水と石の表現とその周囲との関連を考察していきます。自然鯰絵から論点は離れがちなのですが、猿と瓢箪や河童の役割など、単体で読む分にもかなり興味深い調査が記されています。
 第三部は結論部で、それまでの論考から、日本人の信心の形式の一断片を拾い上げ、それを描いていきます。

 安政の大地震以後、表象として現れた大鯰は、破壊者であるとともにその後の富の再分配をもたらす救済者でもあり、そうした二つの側面を持つトリックスターとして信仰の対象になったというアウエハントの主張は説得力があるように感じられます。

 この『鯰絵 民俗的想像力の世界』は先述通り、既に半世紀前の著作であり、既に古典としての風格を漂わせつつあります。古典ということは現代に当てはめる際には、さらに情報の集積を行い、現状に即した補筆が必要だということでもあります。
 そして、その補完のヒントも、アウエハントは用意してくれているのです。
 何ヶ所かで、鯰絵の流行は安政の大地震を契機としているが、一九二三年の関東大震災の際にはほとんどそれを見なかったことを明らかにしています。

 沢田章も彼自身の経験に照らして、一八五五年の流行とまったく同じように、一九二三年にもまだ鯰絵(番付その他)に注目させようとした版元が、二、三あったという点に特別な関心を示している。その試みは「その時代の社会局面がまったく変ってしまっていたため」ほとんど評判にならなかった。事実、一九二三年の東京市民は、一八五五年の江戸のそれとは心理的にも社会的にもかなり変化してしまっていた。それにもかかわらず、そうした試みがなされたということは、たとえば、『震災画報』のように一九二三年にはまだ引続き存在していた心理傾向を活性化させようという姿勢のあったことを物語っているのである。(p. 146)

 ここには少し誤解が含まれています。
SG.jpg『震災画報』は明治大正昭和を生きた反骨のジャーナリスト宮武外骨による、関東大震災のルポルタージュで、震災から三週間とたたない九月二十五日出された第一冊を皮きりに、翌年一月までの約四カ月で六冊を刊行した刊行物です。(幸い現在ではちくま学芸文庫から復刻版が刊行されております)
 このなかで、確かに安政大地震を引き合いに出し、鯰絵の流行を書いている個所はいくつかあるのですが、むしろ外骨は「愚にもつかぬ戯作が多い」だのと、前時代的な流行と感じていたと思わせる記述を多く用いています。
 それはともかくとしまして、はたして東京市民の心理や社会観念が変化したために、鯰という善悪あわせもつ存在への信仰が薄れたのでしょうか。
 それについても、私には疑わしく思われるところがあります。
 外骨は『震災画報』で、地震の際に起こった火事では、火は不浄物を避けるという信心から屋根にのぼって下着を振るった人がいたことや、たまたま焼け残った浅草観音に参拝客が詰め寄せていることなどを載せ、人々の迷信深さをかなり強く戒めています。
 通例的な信仰を持つだけの心理的な傾向は、大正時代の東京人にはまだ強く残っていたと考えられないでしょうか。
 それでは、どうして関東大震災の際には、人の信仰が鯰に集まらなかったのか。
 それは最早、破壊者と復興者をあわせ持つ存在にリアリティを感じなくなっていたからではないでしょうか。
 安政期の地震では、実情はどうあれ、いわゆる上流下流の区別なく、万民が平等に被災したという共通認識が生まれていました。だからこそ富の再分配、持つ者から持たざる者へ運ばれるという観念も生じたのでしょう。
 けれども関東大震災は異なります。

 大震災は不平等に東京を襲った。関東大震災は地震そのものだけでなく、その後の火災の被害がひどかった。火災の被害は不平等だった。被害がひどかったのは、浅草や日本橋などの人口が密集する東京中心の繁華街のほか、本所や深川などの下町である。これらの地域では八五~一〇〇パーセントが焼失している。もっとも犠牲者が多かったのは本所区である。死者五万四四九八人のほとんどが焼死で、この犠牲者は東京市全体の約八〇パーセントに当たる。対する山の手は異なる。赤坂、麻布、四谷、牛込などでは倒壊家屋はあるものの、ほとんどの地域が延焼を免れている。(井上寿一『第一次世界大戦と日本』)

 貧者はより貧者に、相対的に階級間格差を生み出したものこそが震災でした。
 そこに救済者の影はありません。
 だからこそ東京市民の信仰はかつてよりの鯰に集まることはなかったのでしょう。
 では残された信心はいったいどこへ行ったのか。それはおそらく破壊者として認定できるなにものかへと、憎悪のはけ口として向かっていったのではないでしょうか。

 そうした点の考察を含めて、古典を前にした際、補っていくのは後世の読者のつとめになるでしょう。

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