スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

一人称の冒険

 平岡正明の『マイルス・デイヴィスの芸術』を買ってきた。
 おそらくこんな機会でもなければ、ずっと手を出しあぐねたままになっていた本だと思う。
 平岡の文章は得意か苦手かといわれれば苦手だった。
 傲慢で独善的でなにごとをも大上段から切り落とさないと気がすまないあの筆法にはいつも戸惑った。そして「俺」だ。
 初めて平岡の文章に接したのはいつで、果たしてなんだったのか、もはや記憶にはない。
 それでも、あまりにも強い「俺」のインパクトはいまだに心に刻み付けられたまま、蓋をしてできるだけ目にしないように努めてきた。
 そういえば、『AKIRA』のなかで大佐がいってたっけ。
「見てみろ、この慌て振りを。怖いのだ。怖くて堪らずに覆い隠したのだ。恥も尊厳も忘れ、築きあげて来た文明も科学もかなぐり捨てて、自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ」
 とはいえ、せいぜい大学生ぐらいだった青坊主には恥も尊厳も、ましてや築きあげた業績なんかもあるはずはなく、単純に「俺」の一人称で語る評論家の存在に、世間知らずに動揺しただけだったのかもしれない。
 だから、その動揺を人に気取られまいと、平岡の文章を遠ざけたのかもしれない。悔しかったんだろう。
 山田風太郎をテーマにして論文を書いたときも、結局『風太郎はこう読め』は飛ばし読みしただけで全文を読破しなかった。悔しかったから。「俺」なんていう人に先を越されていたのが。
 それだけ「俺」のインパクトに無茶苦茶にやっつけられていたんだろう。
 かつてこの「俺」と同じくらいのインパクトで迫られたことがあった。
 その人は「ぼく」といった。そして「ぼく」といえば植草甚一さん以外には考えられなかった。
 植草甚一さんは軽妙な語り口調でどんどんと自分の好きなことを語った。ぺらぺらぺらぺらと、得意の英語で英字新聞やらレコードのライナーから好き勝手に引用してきて、針の壊れたレコードみたいにどこまでもしゃべり続けた。
 でも「ぼく」の柔らかさに不思議と引きつけられて、どんどんと読み進めちゃった。
 この、ちゃったなんていう文章が許されるのを知ったのも植草さんからだった。「ESPディスクのアルバート・アイラーには興奮しちゃった」こんなタイトルをつけられるのは植草さんだけだ。
 しかし、よくよく考えてみれば、この二人の語り口調はよく似ている。
 まずあらかじめ用意されていた結論があって、そこにいたるまでの紆余曲折が描かれる。その曲がり具合があまりにも大きいために、みんな驚き呆れて、そして引き込まれていくんだろう。
 平岡正明と植草甚一、DJとJJは「俺」と「ぼく」の違いだけで、それを取り除いてみたら案外近しいところにいるように思える。
 なんていったら、二人とも笑いながら怒るだろう。
 植草さんはいつもの人のいい笑顔を浮かべながら、でも目だけは笑わずにじっと見据えてくる気がする。
 平岡は多分苦笑してすごく蔑んだ顔で見てくるんじゃないだろうか。
 でも二人とも異口同音に「あんなやつといっしょにするなよ」という気がする。
 もちろん似ていない面もたくさんあるし、おそらくそちらの方が遥かに多いだろう。
 けれども、「俺」と「ぼく」の同様なインパクトの前に、つい同一視をしてしまうのだ・
 俺もぼくも一人称として使用する作家はごまんといる。それでも、自らのスタイルとして通して、アイデンティティにまで昇華し、かっこつきの「俺」と「ぼく」になしえ、なおかつそれだけで作家のペルソナまで透徹させえたのは、ひとえに作家の力量によるものだ。
 しかし、それでも「俺」や「ぼく」のインパクトは心中を去ることなく、時おりため息とともにひとりごつことになる。
 それに比べると、私のなんと凡庸なことか。
 なんだ、この感覚は単なる嫉妬だったのだ。
スポンサーサイト

コメント

追記

 Bushdogさんのブログ「やぶいぬ日記」にて、このページのリンクを張っていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/Bushdog/20090712/p1
 個人的な体験から平岡受容を語る切り口は、とても鮮烈で興味深いです。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。