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体臭デモクラシー

 体臭の話がもう少し続きます。
 前はラブレーとセルバンテスについて書きましたが、今回はうってかわって日本の作品を。
 金関丈夫は比較文学エッセイ「わきくさ物語」の中で、体臭の発生を主に人種的な体質の差違に起因させています。
 解剖学者でもある金関らしい視点で、同じ見地からの興味深いデータも掲載されていますが、それ以外のにおいの要因として、生活習慣も看過はできないでしょう。

 日本人の体臭があまり強くなかったのには、一つに肉食の習慣が薄かったという点も挙げられるでしょう。
 幻想的な作風の傑作短編集『冥途』の著者として知られる内田百間は名エッセイストでもあり、その一編である「薬喰」(1934)では、幼少期に虚弱だった肉体を補うため、薬食として牛肉を初めて食べた後の経験を次のように書いています。

 牛肉をどのくらゐ食つたのか覚えてゐないけれど、後に口の臭味を消すためだと云つて、蜜柑を幾つも食べさせられ、なほその上に、お酒を口に含んで、がらがらと嗽ひをした後で、叔母さんの鼻先に口の息を吹きかけて見て、大丈夫もうにほはないと云ふことになつて、それから寒い夜道を俥に乗つて家に帰つて来た。

 百間は明治二十二(1889)年生まれですので、この経験は明治二十年末から三十年代のことと考えられます。生家が造り酒屋だったため、特に四つ足の侵入を戒めていたとのことで、この頃ではさすがに少しばかり異様とも感じられる厳戒さをもって肉食に臨んでいたようですが、それでも同じ時期に友人たちの間で、「裏の屋根屋の兼さんが、屋根から落ちて、大怪我をしたぞな。仕事に出る前の晩、肉を食べたんぢやさうな」などという噂話が口に上るくらいにはまだタブー視が残っていたようです。
 やがて、明治大正昭和を過ぎますと、一汁一菜といった献立はすたれ、肉食も日本人の肌になじんだものになってきます。
 それでも、まだこの時点では、体臭の変化が露わになることはありません。
 明治維新による転変は甚大なものではありましたが、人の生活習慣までをも変えてしまうには長い時間を必要としました。それは自分たちが変わったと気づかないほどに緩やかなものだったのです。
 ですから、人々がその変化に自覚的になるには、価値観の根本を揺るがし、敢えてそれを顧みるきっかけとなるような大きな事態が必要でした。
 明治以降の価値観の総決算といえるイベントに、太平洋戦争を置くのはさほど無理のないものだと思います。

 昭和十六(1941)年より勃発した太平洋戦争は、時が経るにつれ籠城戦の様相も呈してきます。衣料、食糧、燃料の配給制度は、慢性的な飢餓を引き起こしたばかりでなく、衛生状態も一気に悪化させました。
 上述の内田百間は昭和二十(1945)年五月二十五日の大空襲で家を焼かれ、隣家の男爵松木宅の離れのバラックに寝起きするようになるのですが、その顛末を含めた日記を残しています。『東京焼盡』と題されたその日記の八月八日の記述に、

 夕家内湯を沸かしバロン松木の盥を借りて行水を遣はしてくれた。五月二十五日以の空襲の晩は家の風呂がたつてゐて家内は這入つたのだが自分は這入らなかつた。それより何日か前に入つてから以来凡そ二月半の垢を溜めてゐたわけである。冬と違ひ特にこの何日か暑くなつてからは気持が悪くて弱つてゐた。胸や背に汗が出ても拭く事が出来ない。拭けば大変な垢がよれて方図がつかなくなるのが解つてゐるからその儘そつとして置く。飯田橋駅の近くの銭湯まで出かけるのは億劫である。きたない身体をシヤツやずぼん下にそつと包んで我慢してゐた。取つておきの昔の花王石鹸ありて少い盥の湯でも大体八十日近い間の垢は落ちた様である。

 なんとなく安部公房の『箱男』で主人公が全身を洗い流す場面を髣髴とさせるものがありますが、それはさておくといたしまして、全身が垢にまみれていて、むしろ愛おしそうにすら感じられる素振りで汚れを包み隠している様子が伝わってきます。
 百間は億劫だという理由で足を向けていない銭湯ですが、しかしこの時期の銭湯は、現在の私たちが思い浮かべるような大浴場とはかなり趣きを異にしていたようです。
 山田風太郎の戦中日記『戦中派不戦日記』には、そのあたりの様子が描かれています。
 時は半年以上さかのぼり一月七日のこと。ちなみに、両者の当時の住居は、百間が麹町番町で、風太郎が目黒にあたります。
 まず、「去年大阪帝大の医学部で検査してみたら、夜七時以降の銭湯の細菌数、不純物は、道頓堀のどぶに匹敵したそうである。世相は物価の急騰に比例して悪化しているから、ことしの風呂などは道頓堀はおろか、下水道くらいになっているかも知れない」と、なんとも恐ろしい前置きが据えられています。
 風太郎は当時まだ忍法帖はおろか作家ですらなく、それどころか東京医専という学校に通う医者の卵だったので、大阪帝大医学部の検査云々というのも、かなり眉唾な話とはいえ、学校がらみで耳にした噂だったのかもしれません。
 いよいよ入浴になりますと、

 灰桃色の臭い蒸気の中にみちみちてうごめく灰桃色の臭い肉体! 湯槽は乳色にとろんとして、さし入れた足は水面を越えるともう見えない。いや、たいていのときは、この一本の足をさし入れるということさえも容易ではない――立錐の余地なしというのが形容ではない満員ぶりである。

 もはや暖をとる以外の意味があるのか判然としない汚水に浸かることが習慣となった原因は、そもそもの人間の汚れにあると、医学生風太郎は推察します。百間がとっておきと宝物のように持ち出した花王石鹸ですが、それも大袈裟な話とはいえない記述が続きます。

 小指の先ほどの石鹸を大事そうに使っている老人がある。石か泥かえたいの知れぬあやしげなかたまりを傍においている少年がある。何も使わずただ手拭いでこすってばかりいる男がある。今石鹸は闇で五円するそうだ。すでに自分のごとき、上京以来二年半になるけれど、配給された石鹸といえば、浴用が三個、洗濯用が五個くらいなものであろう。タオルなどは一本も買ったことがない。衣料切符には一昨年も去年も今年もちゃんとあるけれど、売っている店がない。もしあっても、朝暗いうちから寒風に吹かれて行列に待っているありさまだから、とうてい他生の縁なのである。それで、今は蒲団の敷布を裂いてタオルにあてているという始末である。

 銭湯代が十二銭という時代の五円が、はたしてどの程度の金額か。単純に物価スライドできるものではありませんが、それでも高嶺の花といってもいい高級品な想像はつきます。
 さすがに明治生まれの作家らしく、つつましやかに体臭を抱き込んで、決して筆に載せることはありませんでしたが、それでもやはり臭いのきざしのようなものは漂ってきます。
 そして、百間に限らず、人の書くものに臭いが現れはじめます。
 例えば活動写真の弁士からラジオ俳優・漫談家に転じ、さらに多くの文章もものした徳川夢声は、やはり太平洋戦争の日々を日記に綴って残しているのですが、その昭和二十年四月十七日の項に、自活のためにはじめた家庭菜園について書いている個所で、

 下肥を汲むつもりで、掃除口を開いて見たが、きれいに汲み取られている。失望した。人参の種、胡瓜の種を播くのにどうしても要る(と独りぎめでそう思ってる)。孟宗竹の林(七本しか立っていないが)の傍に、埃捨用の大穴があり、そこに黄色い蝿が沢山とまっている。一昨日だったか汲みに来た爺さんが、この穴に捨てたらしい。シャベルを入れると、夥しい糞塊がある。これを掬って、堆肥の泥とこね合せる。妻がそこへ来て「凄い臭いね」と言う。「まったく鮮やかな臭いだ」と私も言う。生垣の向こうで高崎の婆さんが、このアザヤカで笑い出した。
 が、私の感覚も、このごろ大分変って来た。以前はただ汚いものとしか感じなかった糞尿が、この頃では至極親しめるものになって来た。糞尿のしみこんだ土を見ると、なんとも言えぬ頼もしさを感ずる。

 と著しています。生と死が隣り合わせで密接に連結している時代において、必要はそれまでの衛生観念を転倒させ、かえって親しみすら覚えさせる存在に生まれ変わらせたのでした。
 こうした臭いの体験が、決して夢声だけの特異なものでなかったことは、再び風太郎の日記に戻ってみても明らかです。
 ポツダム宣言受諾後、敗戦国となってからの九月三日、風太郎は生家のある兵庫県但馬に向かう車中の人となっておりましたが、臨時列車としてあてがわれたのは貨物列車で、その居住性能の劣悪さに対してこぼすのが、

 しかし、たしかに臭い。体臭と、汗の匂いと、煙草の煙と、汽車の煤煙と、鉄と鼠と塵と、そして屁の臭い。……炭酸ガスが濃く沈殿して、息苦しくなってきた。

 で、いよいよ家畜同然の身となったと嘆きつつ、今後どれほどの期間、こうした扱いを受けるものか知れないと、諦念をこめた開き直りも見えてきます。
 望むと望まないとにかかわらず、日本人自身が臭いと向き合わざるをえなかった時期の経験は、やがてその後の文学作品にも色濃く染みついていくことになります。

 作家山田風太郎が誕生するのは、昭和二十二(1947)年一月、まだ医学生として研修を続けながら二束のわらじを履いていくことになるのですが、時期的にも年代的にも戦後第一世代の作家というに相応しいこの人物の作品は、どこか常に臭いをたたえるものとなっておりました。
 いまでこそ忍法帖の作家として知られる風太郎でありますが、デビューは江戸川乱歩が編集長を務めた雑誌旧『宝石』で、作品名は「達磨峠の殺人」。そう、文筆活動をはじめて二十年近く、風太郎はミステリ作家として生計を立てていたのです。
 けれども後年の奇想の人の萌芽は既に頭角を現しており、「蝋人」「陰茎人」「満員島」などなどミステリというよりはSFに近い、インスピレーションとイマジネーションの狂騒作が目白押しとなっています。
 その中から臭いをテーマに掲げて考えますと、まずは「天国荘綺譚」(1950)が挙げられます。
 戦前(といいましても、発表当時からすればひとむかし前の、まだ鮮明に記憶に残っているだろう時期)の旧制中学の寄宿舎を舞台としまして、そこで寝起きする悪童たちが教師を相手どり手練手管を講じに講じたいたずらを仕掛けていくという青春群像劇となっています。
 ただし、そのいたずらが、常に教師を大便にまみれさせる結果となるあたり、少々独自の色彩を放っております。
 そして「うんこ殺人」(1948)は、もちろん忘れたくてもそうそう忘れられるものじゃありません。このタイトルから糞末ならぬ文末のケツ末にいたるまで、堂々と黄土色に糊塗された作品は、行間からも目にしみる芳香が沸き上がってきています。
 こうした作品をものした風太郎は、それだけに体臭にまつわる描写も少なくありません。
 太平洋戦争末期、撃沈させられた輸送船に乗っていた日本兵と海運会社社員夫妻は、南太平洋の孤島にどうにか漂着する。そこでたった一人の女性をめぐって起こる悲喜こもごものドラマを描いた「裸の島」(1952)では、

「けだもの! けだもの! けだもの」
 そして彼女はのけぞって笑った。胸に花開いたように半円球の乳房がもりあがった。汗と体臭が、麝香のように日の光のなかに舞い散った。

 官能のにおいを麝香に喩えたのはボードレールでしたが、山田風太郎のこの個所は、躍動感に満ちて悪の華を萌させています。
 太平洋戦争の勃発する直前、しかし日本は既に中国と十年にもおよぶ戦争を行っており、食糧難の歩みは着々と迫ってきておりました。そんな時代にありえざるはずの美食クラブに秘められた謎を追う「最後の晩餐」(1954)の、

 もえあがるような日盛りの路を、女はふとった七面鳥のようにしゃなりしゃなりとあるく。なにかのはずみで、うしろ一間ばかりにちかづいた刑事の鼻に、熱風にまじって熟れきった果物のように甘酸っぱい香がながれてきた。きっと女の汗の匂いにちがいない。

 もはやここでは、汗の乾いたあとにただよう、すえた悪臭はどこにもなく、ただどこまでも芳しい香りに変化しています。
 しかし、これだけでは、戦時中の食うや食わずの不健康な男性の身体と生命力に溢れた女性の肉体を対比させすことで、後者の描写を一層艶やかに印象づけているだけで、西洋における鼻をつまみたくなるような悪臭ですら香気に置き換える文学表現とは種類が異なると主張される方もあるかもしれません。
 それでは「笑う道化師」(1948)はいかがでしょうか。

 待っているのは、やはりブランコ飛びの天女のお花。もっとも空を飛ぶから天女とは云いじょう、胸も胴もまるまるとふとって、その上わきが、――というやつですが、千番に一番の芸当にあせばんで来ると、高い空でぷーんと妙な匂いを放つ――ところが、惚れたというものは恐ろしいもので、この白いいるかみたいなお花の身体から出る匂いかと思うと、これがまた筋の悪い酒みたいに私の頭をひっかき廻して、道ならぬ恋だと恐ろしく苦しみながら、とどのつまりお花の身の毛もよだつ悪だくみの片棒をかつぐようになったのも、実はこの甘い気味悪い匂いの魔力だったと申してよいのです。

 ここでは普段は顔をしかめられるわきがが、異性を惹きつける魔力にもなっています。
 金関丈夫の引いている室町時代の作「四十二の物諍い」に「みめのわろきと、ありかのあると」という題の置かれた一首、

 葛城の神はよるともちぎりけり知らずのありかをつゝむならひは

 器量のよくない女性とありか(わきが)のある女性を比較して、能の「葛城」でも取り上げられている故事から、器量は夜陰に乗じれば無視もできるがわきがはそうもいかないと述べています。実にひどい歌ですが、とにかくこうした中世以前より日本人に培われた体臭を欠点としてのみ見る価値観が、風太郎の小説では打ち消されつつあります。
 例えば同時期に発表された、坂口安吾の戦争末期の情景小説の名品「白痴」において、安吾が白痴の女性を主に視覚的な肉感をもって描いている(押入れに二人でこもる場面などが特に象徴的です)のと明快な対比を見せています。
 坂口安吾や内田百間など、戦前からの作家はパラダイムシフトを感じながら、それをほのめかす記述であくまで言外に表象したのに対して、山田風太郎に代表される戦後に作家となった人々は、戦中の体験を正直に形容することを厭わなかったということなのでしょう。

 こうした臭いの形容は、やがてマンガの分野で大きく展開されていくことになります。
 永井豪の『オモライくん』にジョージ秋山の『ゴミムシくん』をはじめとして、不潔さを特徴とした主人公は戦後マンガ史において事欠きません。極言かもしれませんが、少女マンガを除けば、マンガの主人公はある時代まですべて不潔であったといってしまえる気もします。
 政治的・経済的な情勢がそうした主人公への共感を生んだばかりでなく、吾妻ひでおの『ふたりと5人』で、男女入り乱れて大便を投げ合う場面があったように、不潔さの中にエロティシズムを覚える感覚も養われていきました。
 けれども、現在のマンガからはそうした不潔さは、自ら探さない限りあまりお目にかかれません。
『Dr. スランプ』にてうんちを持って走り回っていた則巻アラレを描いていた鳥山明が、『ドラゴンボール』にて不潔さを武器として戦うバクテリアンを臭いを感じないとして倒してしまったあたりを象徴的に、体臭は再び覆い隠されるべきものとしてみなされるようになっていきました。
 もっとも、それが、小泉八雲が「日本人には体臭がまったくない」と驚嘆に満ちた筆致で述べたのと、内田百間が垢だらけの体を衣服で包み込んでいたのと、どちらにより似た状態であるのか、それはわかりませんが。
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まとめ【体臭デモクラシー】

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