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ありがとうがうまくいえなくて

 丸谷才一には恩がある。
 と申しましても、一面識だにあるわけもなく、遠望から後背を拝する機会すら得られなかったのですから、まったく一方的な片思いです。
 それは庇護の恩、ただし個人的なものではなく、日本語に対する庇護の厚恩です。
 文章を書く人間にも美意識があります。象徴的・思索的なものでなく、もっと直接的な視覚に訴えかける美意識です。
 ぱっと開いた一ページがどのように見えるか。段落の配列、句読点の位置、漢字とかなのバランス……。それら諸々の因子に気を配って、文章を仕立てていきます。
 ところが、その美意識を発揮する段で、現代の日本語はとんでもない不自由を強いられています。
 仮名遣いの分断と漢字の種類の制限さらに字体の簡略化です。これらは自身に新の字を冠し、そればかりか時代を経て伝わってきた側に旧の字を押しつけて、いかにも旧弊固陋なイメージを塗布しました。
 その結果、私の敬愛する百鬼園先生は生涯強く通した仮名遣いを改められ、もんがまえに月という正字の名前をPC環境で共有することさえ許してもらえません。さらに、やはり慕ってやまぬ、『私が殺した少女』で直木賞を獲得したハードボイルドの正統的継承者である一人の作家は、寮という字からうかんむりを抜くというたったそれだけのことがかなわないのです。
 なんとも窮屈なルールにがんじがらめにされ、美意識を満たすかもしれない可能性をはなから抹消されているのです。
 けれども、ここに一人丸谷才一という人物がいて、制約だらけのはずの文章の道を、悠々と散策しておりました。
 小説の世界では物語の中で登場人物を闊達に動かし、エッセイでは和漢洋の典籍に由来する博識を自家薬籠中のものとした薫香やわらかな世界を開き、書評は万巻より適切なものをみずみずしくしらしめる。
 文末に添えられた用字例には、小癪な制限を吹き飛ばすたくましさがあり、そこで見せつけられる美意識に嘆息するとともに意を強くさせられました。
 そして、それらの文章には、著者自ら楽しんで書いているのが伝わる、豊かな抒情が常に内包されておりました。
 このようにして半世紀以上にも渡り文章が書かれたことは、それ自体が日本語を庇護することであり、同時に日本語を鍛えることでもありました。
 どうして一人の文章作者として、感謝を言葉にしないでいられましょうか。
 同時に今日までの庇護を思い、明日から大きな支柱を失った日本語について考えると、ますます恩の厚さを感じずにはいられなくなってくるのです。
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