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豊饒の棗

 一人の人物を起点として連想の環が次々とつながっていく様というのは、これはたいへんに面白く、何気なく読んでいた一冊の本から、思いもかけない人物名を見出したりすると、旧知にでも出会ったかのような喜びを覚えます。
 日本の作家において、この連想を広げやすいのは、なんといいましても夏目漱石と森鴎外でしょうが、鴎外は残念ながら現在では名こそ高くありますが、広く読まれている作家とはいいがたく、かつ文体もまた一見現在の流行からかけ離れているように思えますので、ひとまずここではおきます。
 もっとも、漱石といいましても、私の場合、その連想の端緒は山田風太郎となります。
 一般に忍法帖の作家として知られるこの奇想の作家は、漱石を信奉していると思われる節があり、特に後年の明治ものの中では頻繁に漱石の姿を描き出しています。それは漱石本人のこともありますし、「牢屋の坊っちゃん」のように漱石の文体をまねて一編を作り上げていることもあります。
 風太郎の小説作法は正史やそこに登場する人物にスポットを当てるというよりも、その陰となる部分、ちょうど記録の欠けた部分に手をかけて、それを大きく引き伸ばすというもので、少年時代の夏目漱石と樋口一葉が邂逅するだとかの、あったかもしれない人物相関を作り上げて、さもそれが事実であるかのような描き方をするところにあります。
 この方法は広く伝播して、現在でも多くの作家によって使用されています。
 その最も顕著な例は、関川夏央原作、谷口ジロー画による「『坊っちゃん』の時代」五部作でしょう。
 特にシリーズ名にもなっている第一巻はところどころに風太郎節が顔を出します。新橋駅のコンコースで漱石と安重根と東条英機が邂逅するなんてシーンはその最たるものといえます。
 関川夏央には『戦中派天才老人・山田風太郎』という風太郎のインタビューを構成したエッセイ作品一冊がありますので、この創作法はかなり自覚的なものだと思われます。
 そして、この関川・谷口に影響を受けたと思しい古山寛原作、ほんまりう画の『漱石事件簿』も、かなり風太郎色の強い作品となっています。そもそも半分以上を占める「黄色い探偵」のタイトルからしまして、山田風太郎のとある作品まんまですし、夏目漱石と南方熊楠という同い年の二人がイギリス留学の行き帰りの途上であるインド洋ですれ違うという表現も、風太郎の『明治波濤歌』の一編「風の中の蝶」のまんまです。(もっともこれは澁澤龍彦の「悦ばしき知恵」でも書かれているので、どちらを参考にしているのかはわかりませんが)
 まんまといえば、その南方熊楠の生涯を書こうとして途絶した山村基毅原作、内田春菊画の『クマグス』(後に『クマグスのミナカテルラ』として新潮文庫入り)は、「風の中の蝶」と筋立てが非常に似通っています。
 閑話休題。
 このように一人の人物から多くの連想が広がっていくのは、非常に大きな楽しみと喜びを与えてくれ、創作を志す人間としては、そこに新しい相関図を組み入れたいと技量もわきまえずに、ついつい大それたことを考えてしまいます。
 で、今年夏コミで出そうと考えているのは、夏目漱石の門弟のほぼ最末席に位置する内田百間の空白期間である昭和二十一年から二十五年の物語を風太郎手法で挑んだものであると申しましたら、しまった宣伝だったかと思われてしまうかもしれませんが、実はその通りです。
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コメント

楽しみです

>内田百間の空白期間である昭和二十一年から二十五年の物語を風太郎手法で挑んだもの

百間先生と風太郎のミッシングリンク。
非常に楽しみです。

恐縮です

>ゆらりひょんさん
大言壮語とは知りながらも、風呂敷は大きく広げた方がよいということで、バーンといってみました。
さてさてどのような代物が出来上がるかは、神のみぞ知るということで……

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