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よりぬきギャラクタさん: GALACTA #1

 ありがたいことに、アメコミの記事目的でうちのブログを訪れてくれる方もいらっしゃいますので、ここのところさぼり気味でしたデッドプールのエピソード紹介を更新しようと考えたのですが、最近の翻訳傾向を思いますと、今後の出版スケジュールに入ってそうなものや、単純に私の語学力では面白さを理解しつくしていないものばかりで、なかなか絞りきれません。
 というわけで、今回は特にデッドプールとは関係なく、ひとりのキャラクターをチョイスして、ざっくりその紹介をしてみたいと思います。
 そのキャラクターは、「万象喰らいの娘」ことギャラクタさんです。

GL_01_FC.jpg ギャラクタ。
 全宇宙を漂い、知的文明を築いている惑星を、文字通り喰らうことで自らの飢えを満たしエネルギーと換えている冗談のような圧倒的存在である宇宙魔神ギャラクタスの、その娘として近年発表されたキャラクターです。
 腰に届くほどの赤みがかった紫のストレートヘアが目を引く前髪ぱっつんのハイティーンらしい少女の姿は、とても神にも比されるスケールの大きなギャラクタスの血縁者とは思えません。けれども、彼女にも、コズミックビーイングとしての深刻な悩みがあったのです……
 以下そのデビューを飾った「GALACTA」#1のストーリーをおおまかに。
 ギャラクタさんは現在地球に住み、Twitterぽいものを利用したりして、そこそこ生活になじみつつエンジョイしています。
 彼女が地球に住みついているのは、主にふたつの理由によるようです。
 まずは地球の抱く生態系の連関の魅力に惹かれたから。
 もうひとつが父親への反発です。
 ギャラクタは食欲にとりつかれて、自制することなく能力を振るって星々を食い荒らすギャラクタスに強い反感を抱いています。だから、そのギャラクタスがこれまで5度も侵攻を試みながら、その都度失敗に終わっている星に興味と関心を覚えたようです。
 もっとも、この反感は、実は彼女も父親と同じ欲求を持つことからきています。つまりはギャラクタ自身も常に空腹を覚えてあらゆるものが食べ物に見えるという、間違いなく同じ血を引く、生物的な欲求に常に悩まされているのです。それが「わたしはお父さんとはちがうんだから!」という、実に思春期的な反抗となって現れているわけです。
 そこでギャラクタは絶えざる空腹を地球に対する外敵の捕食で補っています。例えばスクラル星人の放った人体を食い荒らす攻撃的バクテリアや、クリー星人の生物兵器である地核喰らいなどです。
 かわいらしい外見に反して、彼女も平気な顔をしてマントル層よりも更に奥にあたる外殻層をレジャー気分で生身で泳いでいたりして、コズミックビーイングの一角としての能力は十分有していることをアピールしています。もっとも捕食はその力を使って貪るわけではなく、自身にまとわせているマシンを使い、外敵を直接カロリーに換えて摂取するというスマートな方法です。
 けれども、そうして地球を守れば守るほどに、この魅力的な(感覚的に)惑星が、いよいよもって魅力的に(食欲的に)見えてきてしまいます。
 実際、テレビを見ていても、目に留まるあらゆる映像が、かわいらしい猫ちゃんからいかつい映画俳優まで全てカロリーに思えてくる始末。
 そうして美味しそうなものたちに囲まれているうち、いくらなんでも空腹の度合いがおかしいと、自らの体をスキャンしてみて、初めてギャラクタは変調の原因を知ります。
 なんといつの間にか、体内にとある生物が寄生して、パワーコズミックを吸収し、さらに飢えを煽っているのでした。
 その寄生生物の名前こそ、コズミックサナダムシ……
 いや、本当なんですって、ちゃんと原文でTapeworm Cosmicになってるんですって。
 そんな、今年の大河ドラマとも相性ばっちりな寄生虫を身内に宿してしまい、困り果てたギャラクタは恥をしのんで相談を持ちかけるのでした。父親であるギャラクタスに……
 はたして彼女とその体内のサナダムシに託された地球の運命は?

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テーマ : アメコミ - ジャンル : アニメ・コミック

残酷か寛容か

 またもや渡辺一夫の『フランス・ルネサンスの人々』がらみの話を少々。

 今回の主役はミシェル・セルヴェという医師であり科学者です。
 前回に引用しましたエチエンヌ・ドレが不義のために旧教会(カトリック)から火あぶりにされた人物であるとすれば、それと対照的に自らの科学的な信念を貫き通してしまったが故に新教会(プロテスタント)側に捕えられて火あぶりに処せられたのがこの人物であります。
 極かいつまんで生涯を要約しますと、解剖学者・生理学者の祖として歴史に名を残すセルヴェは、その医学的・科学的な熱意に正直であり過ぎたために、結果的に当時のキリスト教徒にとって神聖視されていた三位一体説などを批判する形となってしまい、カトリックばかりかプロテスタントからも憎悪され、やがて逃亡の途中に新教の首魁であるジャン・カルヴァンに捕えられ火刑をもって命を絶たれることになりました。
 最終的に手を下したのがプロテスタントであったというだけで、セルヴェは新旧両宗派より強い批判を被っており、実際にカトリックからも異端者として逮捕・拘禁され宗教裁判にかけられる直前のところにまでいっています。
 このときには、おそらく多くの支援者の手ほどきにより、捕らわれていた牢獄より脱出して逃亡に成功しております。
 その前後については、前掲の渡辺一夫の著作に詳しく記されています。

 セルヴェは、一五五三年四月七日、ヴィエンヌの牢獄から逃亡してしまいました。この間の経緯は甚だ不明ですが、ヴィエンヌにはセルヴェの保護者であるカトリック派の人々もいましたし、医師として信望も厚かったようですから、それと脱獄とは、何か関係があるのかもしれません。セルヴェの逃亡後の五月十日には欠席裁判のまま有罪が宣せられ、六月十七日には、セルヴェの似顔絵とその蔵書五箱とが、ヴィエンヌのラ・シャルニエール広場で実際に火刑に処されてしまいました。これは残忍な執拗さを表すものなのか、それとも形式的な解決法なのかはわかりません。


 日本では無名に近いミシェル・セルヴェという人物について少し時間を割きましたが、私が大きく興味を引かれたのは、この似顔絵を火あぶりにしたという点と、それに対する渡辺の最後のひとことでした。

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彫像と地蔵と雨と火あぶりと

 ちょっと必要があってフランス文学者渡辺一夫の『フランス・ルネサンスの人々』を読み返しておりました。
 16世紀のいわゆるルネサンス(ルネッサンス)期にフランスに生きた有名無名、といいますか日本では知名度がほとんど皆無に近いひとびとの生涯を概説するエッセイ集ですが、その内のひとりエチエンヌ・ドレの章を読んでおりまして、次の個所でふと手が止まりました。

 旱天が続いて雨がほしい時に、子供達を使って、ある彫像の蝕まれた胴体を町中にかつぎ回らせるのは、迷信でなくて何でしょうか?

 このエチエンヌ・ドレは軽薄と軽信を絵に描いたような人物で、やがてその軽挙から友人知人連よりも見離され、近代初期のフランスに暗雲のごとくたちこめていた異端者狩りの網にかかり火刑台の煙に消えていくことになります。
 引用文も、かつて暮らしたトゥールーズの街のキリスト教的におかしな有様を、皮肉をこめて激越に、多少の私怨も含めて語った一部で、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)が自らの主張を絶対に掲げて血で血を洗う抗争をくり返していた時代にとっては、まさに致命的といえる文章です。
 もっとも、私の関心はそうした時代背景ではなく、ここで語られる雨乞いの儀礼らしい記述に寄せられました。

 干ばつは水道施設の発達した現代でも大きく農作物に影響を与え、私達の食卓にのぼるものを変化させます。
 ですので、こうした技術がまだ模索時代だった時代においての、「雨が降らない」という事態の恐怖はまったく想像してあまりあるものがあります。
 土地が異なったとしても、そのような日照りを避けようとする儀礼が残されているのはむしろ当然のことで、かえって遥か遠い異国の地にも日常を暮らす生活が横たわっていることを知るきっかけとなって、どことなくほっとさせられます。
 特にそうした普遍的な儀礼や祭式で、歴史も風土も異なる地域をくらべて思わぬ類似を見ますと。
 と、前置きが長くなりましたが、16世紀前半のフランス南西部の都市で行われていた雨乞いの儀式は、おそらくだれか聖者の像を安置されている祠堂より取り出して町中をねりまわるというものですが、こうした普段は尊ばれる聖体を乱暴に扱い、雨を祈願する祭祀は日本でも多く見受けられます。
 柳田国男の遺したメモを分類して事典形式に編纂した『分類祭祀習俗語彙』といういささか古い本があるのですが、ここでは「雨乞い」だけで1節が与えられて日本各地での多くの祭祀が紹介されておりますが、そのなかに地蔵を用いたものがいくつか挙げられています。

 ヒヤケジゾウ  奈良県添上郡月瀬村で、大字ごとに火焼地蔵というのがあり、雨乞いの祷りに石像の頭に火をあげるという。
 コエカケジゾウ  山形県最上郡安楽城村(現・真室川町)に肥掛地蔵というのが滝の上にあるという。雨が降らぬときは、こやしをこれにかける。清めるために雨が降るという(山村手帖)。
 アマゴイジゾウ  雨乞い地蔵。アメジゾウともいう。秋田県仙北郡花館村滝宮(現・大曲市)の御神体の石地蔵は、旱の年に長い綱をつけて供福寺の淵に沈めて雨乞いをするのでこの名がある。また静岡県安倍郡旧安東村北安東にも雨乞い地蔵があるが、これは縛って水に沈めるようなことはない。和歌山県西牟婁郡中芳養村(現・牟婁町)ドロ本の石地蔵は雨乞いにあたって頸まで水にひたすという(郷土研究一ノ六)。

 こんな風に身近にある祈願を捧げられる存在であった地蔵と前の彫像との扱いの類似を見ますと、距離や時間の差というのは、ヒトを絶対的に隔てるものでもないのだなと思わされます。

 また、ごぞんじの通り、キリスト教はそれまで各地に根ざしていた儀礼や風習を排し、画一的な信仰を規定することで勢力を大きくしていきました。その短所は長所とともに語られるべきでしょうから、是非をうんぬんすることは私にはできません。ただ、面白いと思うのは、ヨーロッパという広大な地域で既に人口に膾炙していたキリスト教文化のなかで、フランスという先進国の大都市であっても、こうした前時代的な風習が普通に息吹いていたということです。
 土地に根付く文化や心情というのは、そうそう変わるものではないのだなとも考えさせられます。

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若気の至れり尽くせり

 落語にはいわゆる芝居噺、芝居ものなどと呼ばれる一連の演目があります。
 もっとも芝居といいましても今の新劇、大衆演劇、ましてやミュージカルなどが登場するはずもなく、歌舞伎ということになります。
 江戸時代の歌舞伎といえば、現在のテレビドラマにも似た気安い娯楽であり、それだけにひとびとの思い入れも強かったのでしょう、様々な個所でさりげなく取り入れられていますが、時代がくだれば嘗ての娯楽もいまや芸術と、少々格式に変化があり、残念ながらその趣向の多くを手軽に味わうことは難しくなっています。
 その庶民の娯楽であった歌舞伎でも、落語で登場するとなりますと、これは九割方忠臣蔵と相場が決まっております。
 ぱっと「七段目」「蔵丁稚」といった演目が思い当たります。
「淀五郎」という噺もそんな内のひとつです。
 落語での忠臣蔵は、現在よく知られる浅野内匠頭と吉良上野介との確執からはじまる赤穂義士の話ではなく、それをモデルとした「仮名手本忠臣蔵」が扱われており、はじめて聴けば人名の差に戸惑うこともしばしばですが、大筋は同じですので、しばらくすれば「なるほど、こういうものか」とあまり気にならなくなります。
「淀五郎」のおおまかなあらすじは次のようなものです。

 大興行にて忠臣蔵全段を演じることになった市川團蔵一座、その中で塩冶判官(浅野内匠頭)に抜擢されたのは、まだ座に加わって間もない澤村淀五郎だった。
 喜び勇んで趣向を考え尽くして、いよいよ臨んだ芝居の初日、ところが判官最大の見せ場である切腹の場面で、全編の主役ともいえる團蔵の演じる大星由良助(大石内蔵助)が奇妙な演出を行い、傍らに近づかなければならない場面でずっと離れたまま芝居を行ったおかげで、非常に間の抜けたものになってしまう。
 芝居が上がり團蔵の趣向の意味をたずねると、意外にも「お前の芝居がまずいから近づけない」と逆に叱責を受ける。
 困ったのが淀五郎で、なにがどう悪いのか考えてもわからず途方に暮れるばかりで、寝ずに別の芝居の型を考えて翌日に臨んでみるものの結果は前の日と変わらない。
 改めて團蔵のもとに行き理由をたずねてみてもやはり昨日と同じく自分で考えろの一点張り、やがて「考えてわからないようならいっそ舞台の上で本当に切腹して死んでみせろ」とまでいいだす始末。
 なにしろ血気盛んな若手の頃、その場では一言もなくとも内心憤懣やるかたなく、「それなら死んでやる。いや、その前に團蔵に一太刀浴びせて」などと物騒な思いに駆られだす。心が決まれば動かしようもなく、この世の暇乞いにと、世話になったやはり当時の名人中村仲蔵のもとに挨拶に向かうが、そこで團蔵の真意を伝えられたうえで淀五郎の短慮を諌められる。そして淀五郎の芝居の足りない点を指摘され、にわかに開眼し塩冶判官を演ずる肝を習得する。
 やがて明くる日、三度切腹の場におもむき、ついに掴んだ芝居の型でもって塩冶判官を演じきり、團蔵もそれを認めてふたりの息がぴたりとあった舞台が出来上がる。

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2016年のごあいさつ

 年も改まりまして2日を迎えましたが、遅まきながら新年あけましておめでとうございます。本年もなにとぞよろしくお願いいたします。

 特にこれといって明確に推し出している何かのないブログですので、なんでもできることが強みでもあり、かつどこに向かっているのか不明瞭なのが弱みでもありますが、それでもなんとか本年も自分の好奇心に素直に話題を提供していきたいと考えております。
 ひとまずは野坂昭如のアルバムレビューは、持っている分だけでもなんとか形にしておきたいところですね。
 歌手野坂昭如は残した足跡は小さくないながらも、やはり作家としての姿が大きすぎていまいち紹介が後手後手にまわっている観がありますし、なにより聴いていて楽しいと思える音楽ですので、その楽しさの何分かだけでも形として残しておきたいのです。
 それとデッドプールの原書紹介も引き続き行っていきたいと思っています。思ってはいるのですが、なにしろ昨年の秋から翻訳ラッシュで、ストックが尽きたのと、どこを紹介してもネタバレになってしまいそうな危惧もあり、どういうアプローチをしていけばいいものか模索中です。
 第1期「Deadpool」誌や、「Cable & Deadpool」に視野を広げればいいのでしょうが、まだそこまで手を伸ばしていないのが実情で、悩みの種ではあります。
 このふたつは去年からの積み残しの宿題ですね。

 また2016年はもう少し同人サークルの活動も活発化させたいと考えております。
 思えばずいぶん長くわが「有滑稽」も開店休業状態でしたからね。
 書きたいものがある間に、なんとか一冊でも多く形にしていきたいところです。

 うーん、抱負までまとまりのない形になってしまいましたが、それぞれに真剣に打ち込んでいきたいと思っておりますので、御贔屓いただいている皆様におかれましては、どうぞ今年も御愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

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