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赤いあんちくしょう二人

DVC_FC.jpg まさか! の2カ月連続2冊同時刊行となりましたShoProによるデッドプールコミックス。
 そのうちの『デッドプールVS.カーネイジ』を読みました。
 今回のラインナップのなかでは唯一未読の作品だったので、かなり楽しみにしていたんですよ。
 いやおもしろかったです!
 企画外のヴィランに対抗する企画外のヒーローの企画外の大バトルで息もつかせず一気に読み終えてしまいました。

 まずは書誌情報を。収録は、

『SUPERIOR CARNAGE ANNUAL』#1(2014年4月)
『DEADPOOL VS. CARNAGE』#1-4(2014年6~8月)

 の2種類で、どちらも独立して刊行されたエピソードの邦訳になります。昨年出たてほやほやのエピソードで、多分現行翻訳されているマーベル作品の中では最も時系列的に新しい作品になるんじゃないでしょうか。(もっとも来月予定されている『デッドプールの兵法入門』の方がさらに新しいのですが)

 ちなみに、私のカーネイジについての知識は、
1) スパイダーマンのヴィラン
2) 宇宙からやってきた共生体で連続殺人犯と同化している
3) 死なない

 程度ですので、一般のアメコミファンの方以下のスタートとなっておりました。そんな私でも、これまでのカーネイジというキャラクターの動向をつかめる解説が充実しておりましたので、引っかかりを感じることなく本編を楽しむことができました。
 特に本編開始前に「SUPERIOR CARNAGE ANNUAL #1」が収録されているので、ここで寄生主であるクレタス・カサディとカーネイジの関係について認識でき(こうやって作品として読むことって本当に大事ですよね)、ふたりのおかれた現状を知ったうえで本編に臨むことができました。

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テーマ : アメコミ - ジャンル : アニメ・コミック

『ガロ』の水木しげる

 かつて『ガロ』という月刊マンガ雑誌がありました。今はもうありません。
 その『ガロ』を出していた出版社は青林堂、こちらも今はもう……といけば対照がとれるのでしょうが、残念ながらそうはなっておりません。
 1964年ですから東京オリンピックの年に産声をあげた『ガロ』は、白戸三平の「カムイ伝」を巻頭におき、何人かの貸本マンガ雑誌の作家を主軸として船出をはじめました。
 その中のひとりに水木しげるも数えられます。
 水木しげるは『ガロ』の初代編集長にして初代社長でもあった長井勝一と昵懇の仲だったようで(といっても、他の作家も全員そうなのですが)、招聘に応えて創刊号から作品を掲載していきます。
 その『ガロ』に載ったものを集めた作品集が、近頃刊行されました『水木しげる漫画大全集』第64巻「『ガロ』掲載作品」です。

MS064_FC.jpg 集めも集めたり30本以上のマンガに、さらに水木しげる以外のペンネームを用いて書かれたエッセイまで含めているのですから、改めて編集者の飽くなき情熱と丁寧な作業には頭の下がる思いです。
 一読驚いたのが、「水木しげるって『ガロ』にこんなに描いてたのか」という点でした。
 水木しげるは早々に『墓場鬼太郎』で「週刊少年マガジン」に連載を獲得したのは知っておりましたので、『ガロ』に作品を寄せたのは「鬼太郎夜話」のシリーズを除いて極短い期間だと勝手に思い込んでおりました。
 ところが実際には創刊から五年間、ほぼ休みなく作品を提供しています。
 長い水木しげるのマンガ家人生で、現在にいたるまで、ひとつの雑誌にここまで長期間に渡ってコンスタントに作品を発表し続けた例はないのではないでしょうか。
 おそらくそれを可能にしたのは、水木しげると長井勝一との間の友情であったような気がします。
 水木マンガの初期、長井勝一は欠かせない存在でした。三洋社という貸本マンガ会社時代からのつきあいというのももちろんありますが、実生活だけでなく、長井はモブキャラとしてよく水木マンガに登場したのです。
 米粒のような輪郭で下がり眉、目は半ば閉じていかにも幸の薄そうな気弱さが漂い、鼻の穴だけが妙に大きく見え、その鼻筋は長くほとんど顎の先まで伸びている。
NK.jpg 最も有名なところでいえば、『ゲゲゲの鬼太郎』の「さら小僧」で印象的な「ぺったらぺたらこ」を歌っているザ・ビンボーズのメンバーの彼です。
 自分の作品に頻繁に登場させるキャラクターとして、いわば血肉に近い仲のふたりを思わせるエピソードを、呉智英が水木の自伝的エッセイ『ほんまにオレはアホやろか』の解説によせています。
 今でもかんたんに手に入る本ですので、内容は実物に譲るとしまして、そこで呉は水木しげるが長井勝一を「勝っちゃん」「勝っちゃん」と呼んでいることを書いています。
 この呼びかけの雰囲気がとてもやわらかで、それは鋭利な文章の代表である呉智英の筆が笑みにゆるんでいることからも明らかです。
 そうした空気がほとんどそのまま『ガロ』に掲載された作品群にも漂っています。
 読んでいて肩の凝らない、力みの入っていない、それでも手は抜いていないいい心持ちのマンガたちです。
 たしかに当時の世相を露骨に反映したものや、救いもなにもないものもまざっていますが、不思議とどれも読み終えてのあと味はわるいものではありません。
 見知った座敷でごろんと横になっているような居心地のよさが読者にも伝わってきます。
 おそらく、それは水木しげるが『ガロ』という雑誌に感じていた感触なのでしょう。
 この巻には妖怪はほとんど登場しません。そういう意味では、妖怪マンガ家水木しげるの作品集としては少々物足りないところがあるかもしれません。けれども、マンガ家水木しげるとして見た場合、やはり看過できない作品群がきらめいているように思えます。

テーマ : 水木しげる - ジャンル : アニメ・コミック

半歩隣の世界

 最近寝る前に赤瀬川原平の写真やイラストが載った本をよく読んでいます。
『超芸術トマソン』『路上観察学入門』『東京ミキサー計画』『イギリス正体不明』などなど。
 全部の著作に目を通したわけではないですし、あまりよき読者だと自負できるほど熱心でもありませんが、不意に手を伸ばしたくなる不思議な引力を持っている人でした。
 赤瀬川原平のそうした魅力をひとことでいうならば、「隣の非日常を垣間見せてくれる名人」でしょう。
 例えばトマソンがあります。
 これは赤瀬川原平が生み出した芸術ジャンルで、無意味なものを無意味なままで受け止めようとする鑑賞方法を伴う事象、と言葉にすると七面倒くさそうですが、実物はいたってシンプルです。
 一軒の家があったとしてください。新築では少し具合が悪く、築二十年くらい経て、そろそろ中にも外にも無理がきだして住人の不便が外からでもなんとなくうかがえるくらいのものがふさわしいです。煤に汚れ、ひび割れなんかが走っている外壁の一部、そこにあっただろう窓が塗りこめられている。古い家にはよくある、改装の名残りです。ただ惜しむらくは名残りとはっきりわかるほどに、窓の輪郭をしっかりと残してモルタルで塗り固めてしまった。おまけに庇はそのままです。
 こうしたとき、この庇がトマソンになります。既に窓はなく、陽射しからも雨からも何物も守る必要がないのに、ただ無意味に頑として存在している庇。その無意味さを味わおうというのです。
 もちろん意味はつけようと思えばいくらでもつけられるでしょう。外壁のいたむのを恐れた、住人は少々異なる美意識の持ち主だった……。けれどもトマソンはそうした意味を放棄します。
 つけようと思えばいくらでもつけられるのならば、あえてつけずにそのままの姿を鑑賞する。
 なんともひねくれた趣味ではありますが、添えられた赤瀬川原平の朴訥とした文章は、そこにいやみやインテリ臭を感じさせない力を持っています。
「これはなんだ?」
 そう思った際に、つい考えてしまう意味を、まったく放棄してしまうとき見えてくる、これまでとは少し異なる様相。それは半歩、私たちの日常をずらして、隙間から非日常をのぞかせてくれます。すると、これまであたり前と思えてきた景色さえ、なんだか違った色彩を持っているかのような気分にさせてくれます。
 トマソンに限らず、赤瀬川原平は、そうした新しい景色を提供してくれる名人でした。まったく新規のものを持ち出すのではなく、ありきたりのどこにでもあるもののなかに、「おや?」と思えるちょっとした変化を与えてくれる。
 日常と地続きのそうした非日常はなんとも心地よく、そうしてページをぱらぱらとめくっておりますと、最も身近な非日常の世界、すなわち夢の世界へとごく自然に誘われて、無理なく寝入ることができるのです。

狐火と髑髏と

 狐火や髑髏に雨のたまる夜に


 与謝蕪村の句集をパラパラと流し読みしておりますと、こんな句が目に留まりました。
 さあさあとしのつく雨がたてる音を聞いていると、ふと窓外からなにやら音がするので目をやればゆらりと怪火がひとつふたつ彷徨っている。そしてその下には野ざらしだろうか、なかば朽ちかけたしゃれこうべに草の葉を伝った雨水がぽたりぽたりと落ちている。
 夜の闇と狐火、静寂と雨音と、対比の美しい句だと、素人判断で解釈したのですが、ドクロの存在がいかにも唐突に感じられました。
 恐怖や怪奇を際立たせようとした道具立てでないことはわかりますし、かといって悲哀や無常といった雰囲気を出そうとすると狐火がかえって邪魔をしているように思えます。
 どういうものかと調べてみますと、この狐火が案外ドクロといいますか骨とかかわり深いことがわかってきました。

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テーマ : 雑記 - ジャンル : 小説・文学

戦争の記録を読むこと

 いつからか、どうしてかはわからないのですが、私の第二次世界大戦の興味関心は主に民衆史に傾いています。
 特に空襲がはじまり、銃後と呼ばれた日本国内が、時に前線以上の攻撃さえ受けるようになって以降、人々がどのように暮らしていたのか、その変化と変わらなかった部分を知りたいという思いを強く持っています。
 そして、現時点で得られたひとつの結論は、多くの場合、ひとびとは強力な破壊を受けても、その直後から寸前の日常を取り戻そうと奮闘しはじめるということです。それは抵抗というよりは、むしろ眼前の非日常から逃れたいという防衛本能のように思えます。
 そのような非日常のなかの日常は、いったいどのようなものだったのか。
 教えてくれるいくつかの書籍を今回は紹介したいと思います。
 ただ、当然のことながら、あの戦争から引き出された感想や考察は千差万別です。これらから、すべてがわかるということはありません。もちろん、私の書籍の取捨選択のなかにも意識の有無にかかわらず、なんらかの偏りはあるでしょう。そもそも私の読めたものなんて、刊行されている関連書籍から見てさえ微々たるものです。
 けれども、だから読まない、というのではなく、なら別にはどのような視点があるのか、それを考察するための一助としてご利用いただけたら幸いです。

 まずはなにより、当時の人々のリアルタイムの証言に耳を傾けるのが重要です。
 そのためには、やはり永井荷風『断腸亭日乗』ははずせない一冊です。
 1917(大正6)年から1959(昭和34)年の死の前日にまでいたる四十年に渡る私的に綴られた日々の記録です。
 明治大正昭和をくぐり抜けた反骨の作家であり、鴎外の衣鉢を継ぐ文豪である荷風は、これまで多くの研究者に指摘されてきた通り、真珠湾攻撃の際にすら一切の興奮を見せることなく、むしろ日本の前途に立ちこめる暗雲を憂えた数少ない人物のひとりです。
 その文体は簡にして要を尽くし、日々起こることをあまりに冷淡に描いていきます。自らが暮らした最愛の邸宅が3月10日の東京大空襲で焼け落ちた時ですら。
 政治的な発言をほとんど表にしていなかったにもかかわらず、当局より危険視され、特に対米開戦以後は文筆活動の道を断たれた荷風は、ですのでかなり一般大衆に近いところから戦争の日常に与える影響を描いています。
 ただし、荷風は生前のかなり早い時期から、自分の日記がやがて公開され、文学的な価値を付与されることを予期していました。ですので、日記を書くペンを握る際のスタイルには、必ずどこかに作家永井荷風の影がちらついています。
 市井の一青年から見た戦争では、何度もこのブログで紹介している山田風太郎『戦中派不戦日記』があります。
 そして荷風が鴎外ならば、漱石の流れを汲む内田百間『東京焼盡』も忘れられません。東京への空襲がはじまった1944(昭和19)年11月1日から1945(昭和20)年8月21日までの、日記を再構成した、百間の生前に作品の一冊として刊行された書籍です。
 当時の百間は日本郵船、東亜交通公社、日本放送協会の嘱託も勤めており、半公人のような位置を持ってもいるのですが、必ずしもこれから紹介する他の日記作者ほど強いパイプを所持していたわけではなく、入ってくる情報の多くは一般市民と変わらない程度のものと見受けられます。
 とはいえ、海軍機関学校と陸軍士官学校のドイツ語教授に籍を置いていたこともあり、法政大学の航空研究会時代の教え子のうちには実際の海軍士官となったものもあるため、軍人と無関係であるとはいい難いのも事実です。
 それでもこの書を推すのは、『東京焼盡』が珍しい終始東京を舞台とした記録だからです。荷風は焼け出された後岡山に、風太郎もやはり長野県飯田市に疎開するため、戦争終結までの三カ月ほどは東京の状況を知ることができません。
 ところが、百間は、当時麻布にあった家を焼かれながらも、「動くのは嫌だ」という子供のような理由で疎開をせず、自宅のすぐ隣家で奇跡的に焼け残ったトタン屋根の三畳一間の倉庫で暮らしを再開し、終戦どころか戦後数年経つまでそこに頑張り続けることになります。
 ですので、ここで書かれているのは、八方を焼け野原にされた後の、東京の様子を描いた貴重な資料といえます。
 荷風、百間はともに、昭和初期から既に文名を知られた作家であり、そちらでの情報網が皆無であったとはいえないでしょうが、有効に活用されていたともいえない人物であります。ひきかえ、大佛次郎『終戦日記』徳川夢声『夢声戦争日記』では、「鞍馬天狗」などのヒットを持つ人気作家の大佛とラジオ出演や漫談で人気を博して海外にまで兵隊慰問に出かけていた徳川夢声は、どちらも強く太い情報網を持っており、ポツダム宣言受諾や玉音放送とその内容について前日には既につかんでいました。
 こうしたいわば情報における特権階級から見た戦中の景色も、これもまた貴重な資料です。

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よりぬきデッドプールさん: Death Comes to Tinseltown

 短くまとまって、おもしろさが伝わりやすく、かつ私でも読めた(つまりだれでも読める)デッドプールの原書を紹介したいと立ち上げたこのコーナーでしたが、おひさしぶりです。
 今回取り上げたいと思うのは、第3期『Deadpool』誌の#26「Death Comes to Tinseltown」です。
 よりぬきデッドプールさんというタイトルをうたっておりますが、この話の主役はデッドプールではありません。
 こちらです。
DP03_26_01.jpg
 総統閣下はニック・フューリーの活躍にお怒りのようです。
 そう、欧米の映画嘘字幕動画の人気が日本にも波及して、いまやひとつの動画ジャンルになりつつあるアドルフ・ヒトラーが本編の主人公格になります。

 1945年ベルリン。退路を断たれた防空壕の中でアドルフ・ヒトラーは怒り狂っていた。神出鬼没のニック・フューリー率いる部隊にドイツ軍は完全に翻弄され、首都到達まで時間の問題とされていた。たった6人、こんなでたらめな連中に、彼の誇った大ドイツ軍は破れ去ろうとしているのだ。
 憤懣は晴れず、部下のもとを離れひとり癇癪を起こしていると、にわかに電光がひらめき、無人だったはずの空間に人影が現れる。
「我はタイム・トラベラー! 巨悪たるアドルフ・ヒトラーに歴史の粛清を与えにやって来た!」
 勇ましい宣言空しく、わずか数コマで撃退されるタイム・トラベラー。
 そして、おお! なんと恐ろしいことだろうか! あろうことか、タイムマシンはいまや最も手に渡ってはならない者が所持するところとなった!
「このいかれた装置を使い、彼のニック・フューリーに鉄槌をくだしてみせよう!」


DP03_26_FC.jpg 時間旅行者アドルフ・ヒトラーを描いた一編ではありますが、おしむらくはヒトラーが装置の操作に慣れておらず、なかなか目的のニック・フューリーに出あえなかったというところでしょうか。
 しかし、失敗は成功の母、時代を放浪するうちに、ヒトラーは未来のおそるべき科学力を手に入れていたのでした。
 そして、1954年のロサンゼルスで、ついに目的の人物を探り当てることに成功します。
 あわれニック・フューリーはこのまま時間を越えた復讐者の前に、無残に屍をさらしてしまうのでしょうか。
 そこに赤い覆面姿の男が颯爽と現れます……

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キティちゃんをさがせ!(出題編)

 来年公開の劇場公開に合わせてでしょうか、デッドプールの邦訳状況が賑やかになりつつあります。
 8月発売の『アイデンティティ・ウォー:デッドプール/スパイダーマン/ハルク』『デッドプールvs.カーネイジ』、さらに9月も2冊同時刊行で『デッドプール:モンキービジネス』『デッドプールの「孫子の兵法」(デッドプールズ・アート・オブ・ウォー)』と、今年の上半期の沈黙ぶりを忘れさせてくれる出版ラッシュです。
 アメコミはなんだかんだで一冊が高く、なかなか手が出しづらいものです。私も気になったものを購入するだけで、よくもわるくも特別なものという扱いになっています。そんななかで劇場公開は、その特別さを演出するのに効果的なのはまちがいなく、普段アメコミ棚を素通りする人でも「おっ」と足を止めさせるだけの力があると思います。
 映画公開は2016年予定で、予告の第一弾が発表された程度ですが、その予告が18禁バージョンと全年齢バージョンがあったり、同じく劇場版の『ファンタスティックフォー』の予告に何故かちょろっと顔を出してみたり(アメコミ内でもほとんどからみのない両者だと思うのですが)と、はちゃめちゃさの演出は既に方々で仕込まれており、いやがうえにも期待が高まってきます。

 少し前になりますが、その仕込みの一環として劇場版デッドプールの公式ツイッターアカウント(@deadpoolmovie)が作成されました。
 その際に注目を集めたのは、唯一フォローしている相手がサンリオのハロー・キティ、いわゆるキティちゃんの公式アカウントだという点でした。
 どうしてよりにもよってキティちゃんだったのか。公にはなんのアナウンスもされていなのですが、コミックスの方で、デッドプールはいくつかハロー・キティアイテムを登場させたことがあるのですね。
 おそらくそれを見たツイッター担当者のお遊びだったんじゃないかなと想像しています。
GBU_FC.jpg 私が発見したのは2ヶ所だけですが、多分他にも描かれているところはあるんじゃないでしょうか。
 まずひとつ目は、第3期『Deadpool』誌17号「The Good, The Bad and The Ugly Part.3」にあります。紆余曲折あってデッドプールはウルヴァリン(とキャプテンアメリカ)と共闘することとなり、なかばでウルヴァリンの腕に負った傷がすぐに回復しないのを発見します。
「そいつはいったいどうしたんだ?」
「俺はヒーリングファクターを失ったんだ。長い話になる」
 それを受けてペトリとウルヴァリンの傷口に張ってあげた絆創膏にキティちゃん(と思しきキャラクター)が。
GBU_01.jpg
 デッドプールがウルヴァリンを「ローガン」と呼んで励まそうとするこのくだりは胸を突くものがあります。
 ただ、ここのハロー・キティは、ちょっとアレンジが加えられていて、牽強付会ととられなくもないかと思われます。

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テーマ : アメコミ - ジャンル : アニメ・コミック

そのままでそのままを

 前回に引き続きまして、もうちょっと所ジョージさんの音楽の話を。
 所ジョージの曲と聞いて、まずイメージされるものは、前にも書きましたがコミックソングだと思います。
 私も初めてベスト盤の『史上最大全集しょのいち』を買った時は、主にそういうばかばかしい曲(失礼な話ですが)目当てで、軽快な言葉遊びのオンパレード「ギャンブル狂騒曲」やとにかく勢いの楽しい「花火」、クレージーキャッツの現代風(当時)アレンジといっても過言ではない「まったくやる気がございません」、さらに「シュウマイ」だとか「スブタ」「女はヤだね」といった数秒で終わる一発ネタ曲に魅せられて、毎日何回もCDをかけていたものでした。
 なにより、所ジョージさんの初めて歌う姿を見た記憶が強く残っていて、それがコミックソングの人という印象を作り上げていました。
 それは私が小学生の頃のテレビ番組で、ゲストで登場した所さんが童謡の「しゃぼん玉」がいかに恐ろしい歌かという点を力説するもので、「しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた」という歌詞の「まで」が到達ではなく、「までも」という並列の意味でとらえて、「しゃぼん玉がとんだ。さらになおかつ屋根までもがとんだ。屋根までもがとんでいってこわれて消えてしまった」。そんな大風の日にしゃぼん玉なんてとばすんじゃない。後に続く「風 風吹くな しゃぼん玉とばそう」でオチという構成でした。
 私の文章では面白さが伝わらないかとも思いますが、その時の、しゃぼん玉を歌い上げる所ジョージさんの姿がいかにもほがらかで気持ちよさそうで、見ているとつい笑いが浮かぶものだったのですね。

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テーマ : 邦楽 - ジャンル : 音楽

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