日々有滑稽
日々読んだ本、聴いた音楽、思ったことを徒然と。
| ホーム |
所ジョージ『JAM CRACKER MUSIC 3』

去年自身のレーベルJam Cracker Recordを設立し、そこからの第3弾となるアルバムです。(1作目、2作目は昨年同時発売)
昔のインディーズレコードさながらに取り扱いショップが限定されておりまして、どうしても東日本に集中しているところは仕方なくも、地方の人間からすると少々さびしくも思うのですが、amazonでも購入できるのは幸いです。
レーベルの公式サイトには、設立趣旨のようなものが書かれておりまして、いわく、「『配信なんてクソくらえ。みんなCDを買いましょう』というコンセプト」とのこと。
そして、今回のアルバムの曲目を眺めてみますと、
1. 万事急須
2. 生活の基礎II
3. 二度とキックはいたしません
4. カラスなぜ鳴くの
5. アザラシじゃ盛りあがれない
6. どうやらタラバガニ
7. オープニング
8. よく考えよう
9. カミさんがパチンコでとってきたアンパンマンの風呂桶セット
10. イロイロあってダメ
11. 外は夏の雨
12. 田舎のゴリラ
13. どうやらタラバガニ(E.Guitar Ver)
改めて、所ジョージさんの「本気」を見る気がします。
『アイデンティティ・ウォー:デッドプール/スパイダーマン/ハルク』のその時私は
以前当ブログで以前紹介させてもらった、『Identity Wars』と同じものになります。
アニュアルという特殊増刊号の形式にて、「Amazing Spider-Man」、「Deadpool」、「Incredible Hulk」の三誌に渡って展開されたクロスオーバーミニシリーズで2011年6月から8月にかけて計3号が発刊されました。
ストーリーにつきましては、過去記事を参照いただくとしまして、今回はこのミニシリーズ掲載時期前後のマーベル世界の状況と、スパイダーマン、デッドプール、ハルクがどういう立ち位置にあったかについてをざっくりと書かせていただきたいと思います。
(文中の年月表記はカバーデイトによるものです、実際の発売日はその一月から二月前になります)
まず、ストーリー開始の2011年6月がどういう時期にあたるかといいますと、現在邦訳で発売されている『シージ』が2010年3月から6月、そして『アベンジャーズ vs. X-Men』が2012年5月から12月までということで、ちょうどまんなかです。
善悪逆転状態の是正とミュータントの存亡をかけた大事変のはざまで、のんびりとした時間が過ぎていたかというと、もちろんそんなことはなく、実はまさにこの2011年6月から大型クロスオーバー『Fear Itself』が開始されています。
アスガルトの主神オーディンの兄弟にあたる邪神サーペントと、その眷属を作り出すハンマーをめぐっての大決戦は、タイイン誌を30誌以上も出した超大型企画だったのですが、残念ながら日本では現状翻訳が出ておりません。といいますか、シージからAvsXにいって、さらにその翌年の『エイジ・オブ・ウルトロン』にまで進んでしまっては、もう可能性が……
と、それはともかくといたしまして、作品内でのキャラクター相関を大きく変化させる事件のはざまにあったのは事実ではあります。
『ラブやん』最終巻読みました
いろいろと驚きではありましたが、なにより自分でもびっくりしたのは、まさかラブやんにときめく日が来ようとは……
ご存知の方も多いとは思いますが、『ラブやん』は2000年初頭より田丸浩史により主に雑誌「月刊アフタヌーン」に連載されていたギャグ漫画です。
恋愛下手な主人公を助けるべく異世界より天使がやって来たことから引き起こされるスラップスティックコメディ、と書きますと、いかにも昔からの少年漫画テイストの王道という感じですが、やや違うのが主人公大森カズフサがロリオタプーの三種の神器をまとい騒動を起こす側で、天使ラブやんがつっこみポジションということで……
ただ設定をひねったというだけでなく、同時に、このカズフサという主人公の造形が、ある年代のひとびとにすごく刺さったのが、足掛け十五年に渡る長期連載を可能にした要因のひとつだと思います。
カズフサはとても、今の三十代にあたるオタクといわれるひとびとのエッセンスを抽出しているのです。
それは外見や言動・思考といったものではなく、まとう雰囲気とでも説明するしかない、全身からただよう何かです。
ただ、なんとなく見ると、「ああ、俺達ってこんな感じだよな」と思わされるものがまず飛びこんできます。
アフタヌーンで現状最長期連載というのも、ある意味もっともだと思わされます。なぜなら今のこの界隈がそうした状況なのですから。
だからこそ、その桎梏を断ち切って、完結に持ち込むことのできたことに驚きと、感動さえ覚えないわけにはいきませんでした。
そして読んだ『ラブやん』第22巻は、納得のフィナーレといえるものでした。
これまでの日常と大きく変わることが描かれているわけではなく、やはりカズフサは己の主に下半身から立ち上る欲求に正直で、ラブやんはそれをたしなめ、そこにぐだぐだな慣れ合いがはさみこまれます。
それでも確実に変化は起こっていました。カズフサの表現した「家族」という言葉にそれが最も強く表れていたように感じます。これまで彼女や恋人を求めていたものの、その後ろ、つきあう女性を作ってからどうするかに向き合ってこなかったカズフサが自ら家族を意識しだしたこと、そこに大きな変化を見ないわけにはいきませんでした。
そしてラストの家族を手に入れたカズフサは、やっぱりいつもと同じく、こちらの立場でこちらの言葉でしゃべっていました。でも、だからこそ、嬉しく喜ばしく思えました。自分達の世界もまだまだ広がる余地がたくさんある。そう教えてくれているかのようでした。
ギャグ漫画に過度なメッセージを読みこむことこそ、たちの悪いギャグだとは思いますが、ついついそんなことを思わずにはいられませんでした。
なにはともあれ、22巻、長きに渡って楽しませてくれた『ラブやん』という漫画に、最大級の謝辞を送りたいです。
そして、このタイミングで、今度こそ念願のアニメ化を!
光文社『ハルク』第1巻
ところが、その光文社が意外にも、派手なアメコミの世界に手を広げていた時期がありました。

『ハルク』もシリーズのうちのひとつで、三巻で終了したとはいえ、現状邦訳の出ているハルクメインの単行本が『ワールド・ウォー・ハルク』のみなことを考えれば、十分に注目度の高い扱いだったと思えます。
先日、行きつけの古本屋さんを何気なくあさっておりますと、この光文社版『ハルク』の一巻がたまたま入荷しておりました。
それで今回はこの単行本の紹介を。
駆逐艦村雨 ある航海士官のこと
当時21歳を迎えたばかりの山田誠也は、そうした時代情勢のなかで、けれども自身を取り巻く日々の生活に苦しみ喘いでいた。
山田誠也、この4年後に山田風太郎というペンネームでデビューし、やがて鬼才として文名を轟かせることになる小説家も、この時は市井の一青年だった。
5歳で父を15歳で母を亡くし、親戚をまわり持ちで育てられたという山田青年は、故郷の兵庫県関宮を飛び出して家出同然で誰ひとりとして知り合いのいない東京へ移住し、沖電気という軍需工場で勤労奉公をはじめることになった。
日の差さない三畳のアパートに寝起きして、医者になるために医学校に入学するという意思、もっともそれとても積極的とはいいがたい漠然としたものではあったが、だけを抱いて日々を過ごしていた。
前回山田風太郎の戦中日記を少し引用した際、あまり詳しく紹介できませんでしたので、ちょっと追記を。
水木しげると同い年の山田風太郎は、大東亜戦争のまっただ中の昭和17年から日記をつけはじめ、おそらく作家になって以降のかなり後年にいたるまでこまめに日々の出来事や感想を書きとめておりました。
そのうち、昭和20年の終戦の年のものが、風太郎が数々の忍法帖で飛ぶ鳥を落とす勢いだった昭和46(1971)年に『戦中派不戦日記』というタイトルで刊行され大きな反響を呼ぶことになります。
実際これは根強いロングセラーとなり、忍法帖の一部を除いてのきなみ風太郎の著作が品切れ絶版状態だった1990年代前半でも着実に増刷をくり返しておりました。
その評判を受けて、昭和48年には昭和17年から19年にいたる部分を『戦中派虫けら日記』(初版刊行時のタイトルは『滅失への青春 戦中派虫けら日記』でしたが、版元の変更時に主副が転倒され、現在ではこちらが一般的になっています)が出版されることになります。
その後は一部エッセイなどで戦後の日記の引用がなされることはありましたが、続刊は行われず、昭和21年から27年にいたる部分が単行本化されたのは風太郎の死後のことでした。
その『戦中派虫けら日記』の綴られるまでの風太郎の状況は冒頭の通りです。自らの将来の暗澹、逼迫する生活に加えて、二十代という死にどきの世代にのしかかる戦争の脅威に四方八方を塞がれ、がんじがらめの圧迫が日記の一文一文からにじみ出てきます。
ただそんな内にも、時折小春日和のようなほがらかな温気のたちのぼる記述に出会うことがあります。
昭和18年2月3日の日付けのある長い一日の記録も、そんな一ヶ所にあたります。
この日、山田青年は勤め先で、思わぬ人物の面会を受けます。小西哲夫というその人物は、同郷で中学時代の同級生でいわゆる莫逆の友でした。
後に小説やエッセイで書くことになりますが、旧制中学校のその寄宿寮で風太郎らは悪逆の限りをつくし、屋根裏に火鉢や生活用具を持ち込んだ秘密の溜まり場を作り、授業をさぼってはタバコを吸い、猥本のたぐいをまわし読みして、いたずらの計画を練っていたといいます。そんな不良仲間の一人がこの小西でした。
彼は中学校卒業後海軍兵学校に進み、航海士官として現在の戦争に臨んでいました。そして、改めての出撃を目前に控え、与えられた休暇を使って山田青年と挨拶を交わしにきたというのでした。
自分の過去、真に全身全霊を以て愛し、敬服した友人は小西一人だ。愛した友達はある。山村、北井はその例だ。が、敬した友人はほかに一人もいない。敬と愛とが相伴い、肝胆相照らした友人はこの小西以外に誰もいない。この友人といっしょにいると、その自信満々たる肌合いに同化して、全身が愉快になって来たものだ。
その小西哲夫がわざわざ自分を訪ねて来てくれたのだ。そしてきくと、彼は今夜六時に東京を出発して浦賀に帰り、そこのドックに待っている駆逐艦村雨に乗って、今夜中に横須賀に廻航し、一夜別離の宴を張ると、五日には南太平洋へ出撃するというのだ。
日記を読むとわかるのですが、山田誠也青年は自分の心情を安心して委ねられる人物をほとんど持っておらず、常に他人と接する際に距離をおいて、相手の考えをうかがい、自身の感情を察せられないように努めています。
その彼が、ここまで全幅の信頼をおく人物というのは、非常に稀有な例外で、読者もほっとひと息、緊張感をほぐすことができる思いになります。
そうした相手ですから、友の情は厚く、交わす心は深く、ただ別離の挨拶をしただけでは離れがたく、いろいろと聞きだした結果、翌日の午前9時までに戻ればいいということを知り、ギリギリまで山田青年の五反田に借りていた三畳のアパートで語り明かそうと話が決まります。
銀座で夕飯をとり、やがて訪れた友ふたりの深夜の語り合いのうちでは、
日本の新戦艦中には「大和」「武蔵」という八万トン級のすごいものがあること。新空母中には「翔鶴」とか何鶴とか何でも鶴の名のついたものが少なくとも三隻はあること。
が、当時の一般的な国民の軍艦知識を表していて興味深くあります。
やがて、朝を迎え、ふたりは品川駅でとうとう別れを告げ合います。
電車はすぐに動き出した。窓ガラスに顔を寄せて、
「しっかりやって来てくれ!」
と、自分は叫んでいた。
「ガダを落とすぞ」
という返事がきこえた。ガダルカナルのことである。そして電車の白い灯の中で、二人は挙手の礼をした。
みぞれのほのかな暁闇に、二人をのせた電車は消えていった。自分はひっそりした冷たいプラットフォームにしばらく佇んだ。あの電車に乗りたかった。横須賀へも南太平洋にもついてゆきたかった。全身が火のようにかっかっと熱かった。
感傷にふけっているというわけではありません。なにしろ、これが今生の別れとなる可能性も非常に高かったからです。
風太郎は『戦中派不戦日記』のあとがきで書いています。
しかし、それよりもなお忸怩たらざるを得ないのは、結局これはドラマの通行人どころか、「傍観者」の記録ではなかったということであった。むろん国民のだれもが自由意志を以て傍観者であることを許されなかった時代に、私がそうであり得たのは、みずから選択したことではなく偶然の運命にちがいないが、それにしても――例えば私の小学校の同級生男子三十四人中十四人が戦死したという事実を思うとき、かかる日記の空しさをいよいよ痛感せずにはいられない。それに「死にどき」の世代のくせに当時傍観者であり得たということは、或る意味で最劣等の若者であると烙印を押されたことでもあったのだ。
真珠湾以降、連戦連勝を続けていると報道されていた当時であっても、ガダルカナル島の苦闘の情報は届きましたし、戦死者の報告はどこででも目にする機会があったでしょう。身近なところであっても34人中14人、このおそるべき死亡率の一端は既に示されていたと考えられます。
身につまされる死の予感に、感情的に一蓮托生の道を望んだとしても、それは無理からぬことでしょう。
そして、この予感は、実は的確なものだったのです。
「水木しげる出征前手記」のこと
高等小学校を卒業後、美術学校、園芸学校、工業高校と数々の学校をドロップアウトし、日がな一日をぶらぶらと暮らし、唯一洋画研究所に絵の勉強に通うのが日課となっていたこの青年こそが、後に水木しげるとして知られることになる人物でした。
今月発行の雑誌『新潮』にて、その水木しげるとなる前の武良青年が書き記した手記が公開されました。
「水木しげる出征前手記」と題された文章について、その成立と発見については、以下のような編集部による注釈が添えられています。
本手記は、二〇一五年五月末、漫画家・水木しげる氏(九十三歳)の書簡を整理していた家族によって発見された。水木氏はこの原稿の存在を記憶していなかったが、年月日の記述からラバウルへ出征する昭和十八年の前年、昭和十七年十月から十一月(満二十歳時)にかけて執筆されたと推測される。
四百字詰原稿用紙三十八枚に書かれた原稿は、戦後に紐で綴じられており、今回の掲載に際しては、日付や綴じた冊子の順番を参照して構成した。(後略)
手記は日付けがまず冒頭に付され複数の短文が添えられる日記形式で綴られています。
内容的にみて、もっと長い原手記がありそこから戦後意図的に抜粋されたという可能性は低く、一時的な衝動から内心の吐露と整理のために短期間集中して書き記されたものと、日常的な光景や会話の記録がほぼ欠如しているところからも推測されます。
本文を開いてみて一読驚かされるのは、書かれた文章が、現在私たちの知る水木しげるの飄々としたイメージからはかなり遠い、硬く棘のある文体を持っていることです。(引用に際して旧かなを新かなに、一部漢字の送りを改めています。以下同様)
仏教のような唯心論には反対だ。
人間は心と肉とよりなる。もと哲学と自然科学は同じものであった。これは当を得ている。真に哲学をやろうとすれば自然科学もやらなければならぬ。
仮に死を研究するにしたって、生物学的にも精神的にもみなければならない。まあそれはよいとして、吾の目的と言うのは芸術家である。何故と言うに芸術にはこれでよいという限界がないし、また俺は芸術を捨てることが出来なかったからだ。
いかにも青年らしい気負った文章であり、広大無辺とした原野に放り出された人間の懊悩と遠望が伝わってきます。
けれども、そうした青春らしい熱意や目標というのは、これまであまり水木しげるの原像として語られてこなかった部分のように思われます。
では、この手記は、後の水木しげるによって韜晦された、活気に溢れた青年時代を提示し、ひとりのどこにでもいた二十歳の若者を取り出してくるのかといわれると、それもまたうなずきにくい部分もあります。
書かれた文体はともかくとして、中身はやはりわれわれの知る水木しげるを彷彿とさせるとことがあるからです。
では、その主となる内容はどのようなものかといえば、「自分はどのように生きるべきかという自問自答」となるでしょう。
冒頭の二日と書かれた日の記述で、早々に次のような文章が現れます。
自我を否定する時は今だ。
この環境がこぞって吾を滅さんとする時、泣かずわめかず自我を否定して怠らざるべく努めるのは今だ。
耐えるのは今だ。
自我はこうした事件(召集令)にその強さを発揮する。
このカッコ内の部分は編注かとも考えたのですが、他の注とは明らかに書式が異なるため、原文によるものと判断しました。
いきなり主張が剥き出しの文章で、意図を汲み取るのに苦労させられるのですが、順番に考えていくならば「個性や自意識が時代情勢から脅かされる現在、敢えて自我を殺して他者と合一してやり過ごすべきだ」と言っているように考えられます。
召集令という男子であれば避けられない事態も、自我が邪魔をしてそれを撥ねのけようとしてしまう。そうすれば、かえって自らの生命までも危機に陥れかねない。だからこそ、自分を一度は殺してでもここは耐え忍んで生き抜かないといけない。
そう読めるのですが、ただ正直申し上げて、この手記での「自我」の用法はかなり独特です。他人からかくあるべしと規定されている自身という風に読める個所もいくつかあります。
それでもひとまずは召集令という現実に対して、自意識を抑えて生きていこうという点は伝わってきます。
もっともこれで納得したかというとそうではなく、自意識の所有に対する葛藤はこの手記全体を通したテーマになってきます。
百間先生のマクロコスモス
作風は日常の風景を無気味な雰囲気に変化させる不条理で不可思議な幻想風小説と、身のまわりで起こるできごとをユーモアのたちのぼる文体で描いたエッセイの二種類に分かれ、現在でも多くのファンを持つのは前者ですが、実際に文名を上げて一躍時の人にしたのは後者でした。
代表作として挙げられることの多いものに、鉄道旅行記「阿房列車」シリーズと愛猫の失踪を書いた『ノラや』、小説では『冥途』『旅順入城式』などがあります。
鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』、黒澤明の『まあだだよ』が、それぞれ内田百間の著作をもとにしていることも知られます。
と、なんとなくわが百間先生のことを改めて紹介するつもりになったのも、ここ最近少々考えることがありまして、著作を順を追ってぼちぼち読み返すうちに、新たな感慨が湧くところがあったからです。
それは「内田百間というのはこんなにスケールの大きなイメージを描く人だったのか」という点です。
どちらかといいますと、これまで読んで印象に残っていた百間作品は、「師匠にいいつかって留守番をしていたら小人がやってくる」「鏡という鏡を見ると中からもうひとりの自分が出てくるような気がする」「家の縁の下に狐が棲みついた」などなどで、局所的なイメージを達者な文章で読ませる人という風に思っておりました。
けれども内田百間の名前を広く知らしめることになった昭和八年刊行の『百鬼園随筆』(百鬼園は百間の別ペンネームみたいなものです)の、飛行機に関するエッセイにはその限定された感じがとても薄いのですね。
ちょっと話は脱線しますが、内田百間は多くの明治生まれの作家と同じく語学教師を勤めていた経歴を持っておりまして、最も多い時期には陸軍士官学校・海軍機関学校・法政大学の三校でドイツ語の教鞭をとっておりました。そのうち法政大学では昭和四年から航空研究会という、実際にプロペラ飛行機を飛ばす学生サークルの顧問職につき、飛行機にも造詣を深めていくことになります。
あくまで顧問ですから、自分で操縦することはないのですが、それでも教え子の後ろに乗って周遊する機会は多かったらしく、その経験が初期の文章のところどころに現れてきます。
その文章がいかにものびのびとしているのですね。
今回読んでいて、好きになったエピソードで、飛行場で飼われている犬が格納庫から出てきた飛行機のプロペラ試運転時にたつ突風を利用して体についたノミを吹き飛ばすというものがあります。
いつもの百間先生お得意の真剣なんだかふざけているんだかわからない筆致で、飄々と書かれるこの文章は、今まで気づかなかった豪快な話で、その直後の「四十五万坪の立川の飛行場は蚤だらけの気がして」とむずかるのも、なんとなく視野がぱあっと広がるような心持ちにさせてくれます。
飛行機という媒介を通じて、速度・音声・高度、もちろん眼下に広がる高層ビルもまだろくにない昭和前期の関東平野を一望する光景などが伝わってきまして、これまで感じていた百間の文章の鋭角に絞る焦点とはまったく逆の拡散されるイメージの開放に、驚くとともに悠然とした足を伸ばしてくつろぐゆったりした気分を味わわせてもらいました。
| ホーム |