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小さな賛辞を声高に

 当代の十代目柳家小三治が人間国宝に認定されたということで、まずはおめでたい話です。
 小三治といいますと、柳家小さんに通じるといわれていますが、当代はいつの頃からかその意思を見せなくなり、芸道の練磨に腐心され、ついに今の名跡を大きく育てられました。結果、小三治イコールじゃがいも顔にへの字口でぎょろりと目を光らせたあの顔が自然に浮かぶまでになりました。
 そういうご尊顔ですから、あまり愛嬌なんて言葉で形容しますと、覿面雷が落ちてきそうな雰囲気を持っています。
 その鬼瓦もとい仏頂面から生真面目な調子で紡ぎだされる語りは、演者の様子とのギャップもあって、鮮烈な爆発力をもって聞くものにぶつかってきます。
 落語の演目の種類分けにはいくつかの方法がありますが、私がひそかに思っているものに、日常と非日常があります。
 非日常は、これはなにか大きな事件的な物語を描くもので、例えば「子別れ」や「火炎太鼓」「黄金餅」など、特別な端緒があって結末にいたる、一度きりのお話です。芝の浜で海から流れてきた大金の入った財布を拾うなんて事態が、そうそう毎日のように起こっていると、これはもっと別の事件を思わせて、元の話がとっちらかりあまりよろしくありません。あれはとある年の暮れの押し詰まった一度きりの話だからこそ大いに心を揺さぶられるのだと思うのです。
 それに対して、日常話は、これはいつどこでも起こり、また極端にいえば同じ人でくり返されてもおかしくない話です。「寝床」「雑俳」「道具屋」などなど、年中江戸のあちこちで見られたであろう光景を抜き出したもので、反復の笑いだけに、聞く方の想像する日常の図像とピタリと当てはまった時にこらえきれない笑いが汲めども尽きずわき上がってきます。
 小三治の生真面目さは、この日常の笑いを伝えるのに、過不足なく働きかけてきます。
「時そば」でのうまいそばとまずいそばの食べ分け。この話では、うまいそばはもちろんまずいそばに当たった方も、後の奸計の段取りのために、真面目にそばを食べざるをえない形になります。どうしてそんなに真剣にまずいそばを食べているのか、ほとんど自分でも見失いながらもそれでも完食してしまう律義さについ笑ってしまいます。
「茶の湯」「宗論」「うどん屋」などなど。
 小三治が得意とする話の大きな部分を、そうした日常の笑いが占めています。
 無論これは笑いの性質の差異であって、優劣を表す尺度ではありません。
 ただ裃を着て、居住まいを整えて、聞く側にもそれなりの準備を要する非日常の事件ではなく、腰を下ろしネクタイをゆるめたところでも自然と耳に入ってくる日常の世間話のうちに、気付いたら笑ってしまっている落語もまた好きな形式の一つなのです。
 ともあれ、路地裏に居を構えた気難し屋の人間国宝の誕生を、改めて喜びたいと思います。
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枝雀を聞きたくて

 年に何度か無性に桂枝雀が聞きたくなります。
 だいたいが「寝床」「くやみ」「宿屋仇」からはじまりまして、その時の気分で聞きたい噺を選ぶというのが、一週間から二週間ほど続きます。
 とはいいましても、寝る前のわずかな時間だけの話でして、多くても二席ほとんど一席が限度ですので、なかなかどっぷり浸るというわけにはいきません。
 枝雀の魅力は多々あるとは思いますが、私は声にまず惹かれます。
 ねばっこい、いかにも関西弁らしい関西弁で、納豆かおくらかとろろいもかと思えるしつこさを持ちながら、それでいて圧倒的な早口でまくしたてますから、糸を引いた言葉が耳から全身へまとわりついてくる感覚があります。ところが、これが不思議なもので、まといついた後は意外と離れがよいので、言葉に自分が囲まれている感じがとても快いのです。
 特に夏には、むしろこの暑苦しい声が、暑気を吹き飛ばしてくれまして、なんともすがすがしい気持ちにさせてくれます。
 そんなわけで、好きな噺も夏の噺が多いです。
「夏の医者」「蛇眼草」などなど。怪談噺の「仔猫」や「まんじゅう怖い」も不気味さと愛嬌が重なって間をおいて聞きたくなる魅力があります。ちなみに有名な話ではありますが、大筋では江戸落語でも「まんじゅう怖い」は同じですが、サゲにいたるまでの盛り上げに大きな差があり、怪談噺としかいいようのない趣向が中に凝らされております。ですので、私としてはこの噺は夏のものに分類したいのですね。
 とにもかくにも、また今日もあの坊主頭の枝雀の「かーっ」という太陽の照りつけにも似た叫びを聞きたいと思います。
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