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百鬼夜走る

 作家内田百間が太平洋戦争末期の昭和十九年十一月から昭和二十年八月までに書き残した日記は、生前本人の編纂を経て『東京焼盡』という題名で上梓されました。
 その日記の昭和二十年三月二十八日部に、次のような記述があります。

 考えて見るに、この頃は毎朝の新聞が面白い。特にB29に関する記事は本気で読んで、こちらへ来るか来ないかの判断をする。眼光紙背に徹するの概がある。ラジオがこわれて聞かれぬ所為もあるが、新聞がつまらないと云っていた時分とは読む気持が違っている。朝から寝る迄、寝てからも緊張している。自然主義時代に云った、刺激に生きる明け暮れであって、驚きたいという願いは常に充たされている。何年か後になって顧みれば、あの時分の生活は張りがあった、生き甲斐があったと云う事になるかも知れない。敵の空襲がこわいのと、食べ物に苦労するのと、それだけであって、後は案外気を遣わないのんきな生活である。

 ほんの二週間ばかり前の三月十日、十万人という未曽有の犠牲者をだした東京大空襲の直後の文章とは思えない安穏な筆の運びです。
 私はこの記述を読むたびに、坂口安吾の、戦後のベストセラー「堕落論」の、人口に膾炙した一節を思い出さずにはいられません。

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原子爆弾はいつ原子爆弾となったか

 昭和二十年。直感的に何かを覚える年だったのでしょう。多くの人々が日記を書き留めています。
 例えば永井荷風や内田百間、山田風太郎のように、以前より日記をつける習慣を持っていた人はもとより、大佛次郎やフランス文学者の渡辺一夫のように、急に思い立ってペンを握りはじめた人もいます。
 かつての大学時代の恩師であるN先生などは、ややおどけた口調で「なにしろ灯火管制が行われていますから、夜にはやることがないんですね。だから日記でも書くほかなくなってしまう」などと仰っておられましたが、確かに、荷風や百間の日記を読んでみますと、昭和二十年の記事はその前後と比べて非常に精緻に筆を費やしていて、字数が多くなっています。
 時間があったからか、書くべき内容が多かったからかは、一概に断言できないでしょうが、大変に多くの個人視点による太平洋戦争末期の記述が残されていることは、後続のものにとって大変に尊い遺産となっていると思います。
 さて、そうした日記を読んでいると、ふと気になる個所がいくつ出てきます。
 その一つが、八月六日から続く一連の広島長崎への記述です。
 まず多くの日記に一貫しているのは、八月六日の広島の被災について。八月八日づけの徳川夢声の日記に新聞記事が要約されています。

 本日の新聞に見る大本営発表次の如し――
 一、昨八月六日広島市はB29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
 二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

 この新聞記事をもとに多くの記述者は持論を展開しています。東京ならばまだしも、地方都市の爆撃は各地方軍管区発表にまかせていた経緯があり、大本営発表という時点で事態の深刻具合を覚った人も多かったようです。
 次ぐ八月九日の長崎についてはよくわかりません。少なくとも十一日までに被災の発表が行われた形跡は、どの日記からも読みとれず、九日以降はソ連の宣戦布告による混乱もあり、果たして十五日までに一部でも報道がされたものかどうか覚束ないのです。
 少なくとも、広島を襲った爆弾については、新型爆弾、新兵器と呼称され、終戦の詔勅以前に公的に原子爆弾という名称が使われたことはなかったようです。これは先日紹介した小倉豊文の『絶後の記録』にも似たような事が書かれていました。
 当時の典型的な記録は兵庫に疎開していた谷崎潤一郎のもので、八月八日の日記に、

大本営発表に依れば敵は六日朝八時二十五分頃新型爆弾を以て広島市を焼きたるものの如し。

 としたためています。岡山に疎開していた永井荷風はもっと簡素で八月十日に、

数日前広島市焼滅以後、岡山の人々再び戦々競々。流言蜚語百出す。

 とあるだけです。それがかえって、当時の報道の偏向具合を物語っているともいえます。
 けれども、他の日記を読むと、やや小首を傾げるところが出てきます。
 大佛次郎は八月七日に書いたところでは、

夜になると岸克己が入って来ていよいよということに成ったという。何かと思うと広島に敵僅か二機が入って来て投下した爆弾が原子爆弾らしく二発で二十万の死傷を出した。死者は十二万というが呉からの電話のことで詳細は不明である。大塚雅精も死んだらしいという。トルウマンがそれについてラジオで成功を発表した。(よし子の話だと七時のニュウスで新型爆弾を使用しこれが対策については研究中と妙なことを云ったというが)十日か十三日に東京に用いるというのである。他の外電は独逸の発明に依ると云っているが、米国側では一九四一年からの研究が結実したと発表している。何としても大きな事件で、閣議か重臣会議がこの為に急に催されたが結論を見なかったそうである。ロッキー山研究所のウラニュウムが物に成ったのだとしたらこれは由々しいことで、戦争が世界からなくなるかも知れぬような画期的な事件である。また自分の命など全く保証し難い。横須賀の襲撃に用いられれば恐らくそれが最後なのである。こう成っては本の疎開も糞もない。空想的な科学小説が現実のものとなり木っ端の如くこの命を破るわけであった。

 鎌倉に在住し、報道機関各部に強いパイプを持っていた大佛を引き合いに出すのは、少し無理があるかもしれません。なにしろ、彼のもとには、八月十一日の段階で日本がポツダム宣言を受け入れることが伝えられているのですから。
 そのあたりは国営ラジオ局に頻繁に出入りしていた徳川夢声も共通するところがあるでしょう(なにしろ夢声はさらに一日早く八月十日の時点で宣言受諾を聞きつけています)。前述の八月八日の日記には悲憤惨憺書き殴られています。

 ウラニウム爆弾――だかどうか分らないが、敵が広島に使用した一物が、並大抵のものでないらしい。たった二発でドエライ被害があったと言う。今度ラジオで放送された、李殿下の戦傷死もそれだそうだ。
[ここに上述の新聞記事要約]
 これに関し、
 ――敵がこの非人道なる行為を敢てする裏には戦争遂行途上の焦燥を見逃すわけにはいかない、かくの如き非人道な残忍性を敢てした敵は最早再び人道を口にするを得ない筈である、云々。
 という、泣言みたいな、負けおしみみたいな説を例の如く附しているが、それは日本の官報的新聞の愚かな筆癖と片づけるとして、この人道という言葉を短い文の中に三つも使用している所から、記者自身相当狼狽てて興奮している事を看取できる。
 さて、今私はこの爆弾の、圧倒的威力について聴き込んだのである。
 ――若し、広島の被害を国民が知ったなら(即ちこの新爆弾の威力を知ったなら)全国民は忽ち戦意を喪失するであろう。
 という話だ。

 また、八月六日部にも、後に書き加えられたと思しいですが、

(本日八時B29三機広島ニ来リ、恐ルベキ新型爆弾ヲ投下ス。落下傘ニツケタル、原子爆弾ノ如キモノ。死者十五万トモ二十万トモ言ウ。戦争ノ局面コレニヨリテ一転ス。)

 という個所があります。
 では作家内田百間はどうでしょうか。百間は戦中はほとんど他の一般人と変わるところがないように見受けられますが、大正から昭和初期にかけて陸軍士官学校、海軍機関学校にドイツ語教師として勤務し、親しい教え子にも数人の軍人がいました。この明治生まれの文士は空襲で住む家を失いながら、しぶとく東京に居座り続け、八月九日の日記に次のように書きます。

午前六時四十五分警戒警報にて敵の機動部隊また本土に近づき東北地方に艦上機を放って攻撃を加えている由を報ず。七時三十五分解除。又午前八時十五分警戒警報。B29一機なれども去る六日の朝七時五十分B29二機が広島に侵入して原子爆弾を投じたる為瞬時にして広島市の大半が潰滅した惨事あり。その後だから一機の侵入にても甚だ警戒す。

 そして、医学生であった山田風太郎は学校ごと疎開してきた長野県にて、八月十一日に、

 佐々教授曰く「戦局はいよいよ苦しくなって来ました。外交上のミスに、敵の新武器、――新聞にはとうてい発表できないような惨状も或る町には起ったと聞きます。[……]」
[中略]
 佐々教授のいえるは、敵が今回広島に使用せる爆弾を指せるなり。原子爆弾なりと伝えらる。ウラニュームを応用せるものか。
 噂によれば、敵の来れるはただ一機ただ一発なり。しかも広島の三里四方生きとし生けるものすべて全滅す。遠くより電話すれども通ぜず。飛行機にて偵察してはじめて死の町なることを発見せるなりと。助かりしは出張中なりし県知事一人なりしとのことなり。
 誇大のデマなることを信じたし。

 多かれ少なかれ、こうした日記を書いた人々は、特権的な情報網を持っていたことは明らかです。
 けれども、そのルートはそれぞれに異なり、その内ただ原子爆弾という単語に共通点が見えてきます。
 つまり、太平洋戦争中、八月六日以前より、日本人には原子爆弾という名称について一定の共通認識が存在したのです。
 ところが、名称以外の認識はまったく皆無といってよく、その効果については想像の埒外であったこともまた明瞭といわざるをえません。
 一つの幻として薄気味悪く存在を認識していた戦中の原子爆弾ですが、はたして戦後にいたってその実存は把握されたのか。
 人々の日記を読んでいくと、思いがけなくもそうした疑問が心に浮かんできます。

巡りの悪い血から考えたこと

 足の先に血が集まって、そこから流れがせき止められているように思える。
 新しい靴を履きだすといつもこうだ。
 私の足は幅広で甲高、指も丸まっちくて寸詰まり、昔の幼年時代に学習図鑑で見た原始人の図そのものの様相を呈している。あれほど鍛えられてもいないし、毛もひょろ長いものが数本ちらちらと生えているだけなのが、かえって滑稽で情けなさに拍車をかける。
 その足をギュウギュウと新品の靴が締めつける。特に小指付け根の突き出した骨と親指の側面は何度も擦りつけられ痛みすらともなう。
 来週十三、十四日には夏コミが迫っており、東上の際に履く靴を今から慣らしておこうと二、三日前から足を通し出したのだが、これでは先が思いやられる。
 そして今日の炎天だ。降り注ぐ日の光は、アスファルトの街路を熱し、その上を歩く靴は焼き縮められたような錯覚を覚える。
 暑い日は苦手だ。まして、八月の炎天は、いやがおうにも読んでいる本の内容を思い出させる。
 毎年八月にはできるだけ太平洋戦争に関する本を読むようにしている。
 二十歳頃からはじめたことだから、もう十年とちょいになる。最初は大学での研究絡みで山田風太郎の『戦中派不戦日記』を手にとってのことだった。
 昭和二十年敗戦の年に二十三歳だった青年の、沈鬱で、それでいて血を吐くような叫びは、読むごとに眉間を曇らせ、いわくいいがたいわだかまりを私の胸中に植え付けたが、それでもこの八月の開幕に合わせて必ず紐解くことにしている。
 今年もまた一月一日の記述からはじめ、もはやお馴染みになった「運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」からはじまる日々の記録に目を通していく。ペースはおおむね一日かけて一月と少し。毎年のことなので、さほど苦もなく読み進めることができる。
 けれども、六月に入って少しのところで、具体的には五月二十四日未明の大空襲にて住んでいる家を焼け出され、二週間近く紆余曲折を経て故郷である兵庫県但馬にたどりついたところで、一旦本を脇に置いた。
 準備していたもう一冊小倉豊文の『絶後の記録 ―広島原子爆弾の手記』を読むためだ。
 私の戦争に対する興味関心は、主に日本本土にあった。けれども、これまでろくにヒロシマ、ナガサキについての本を手に取ることはなかった。ほとんど意識的に目をそむけてきたといっても過言ではない。けれども、今年はなんとしても読まねばなるまいと、心中意を改め、あらかじめ用意しておいたのだった。
 昭和二十年八月六日のその日、広島にいて、生き延びた一大学教師の体験談を、同じく被爆し命を奪われた妻にあてた手紙として書いたもので、こうした手記としては最初期に出版されたものにあたる。
 一読驚かされたのは、その文章の淡白なところだった。
 血なまぐさい描写は少ないし、最も凄惨な場面を著者は自らの限界と称して筆を省いている。しかし、まだ前半にあたる個所で、私は読む手を止めないわけにはいかなかった。
 それは第四信「焦熱の死都」の一節、義姉の被災状況を描いた個所だった。
 爆心地から二キロメートルにあたる場所にあった義姉の家は、原爆の一閃で倒壊した。命からがら飛び出した義姉は、家の外で遊んでいた二人の子供を守ることはできたものの、生来体が弱く家の中で掃除の手伝いをしていた長女は、崩れ落ちた瓦礫の下に閉じ込められてしまった。無我夢中で助け出そうとするものの、女手一つでは一軒の家の建材はあまりにも膨大だった。そして、折しも近所から火の手があがり、やがて炎は目の前で我が家をも呑み込んでいく。義姉は長女の泣き叫ぶ声を背中に受けて、熱風から逃げるしかなかった。
 読んでいて背に粟を生じた。生きながら身動きもできず、体の一部分をじわじわと焼け焦がされていく恐怖、それを初めて身の毛のよだつものとして覚えたのだ。
 原因はわかりきっている。足を締めつける新しい靴と、八月の容赦ない陽射しだ。
 けれども、そうした助力がなければ、私はこの程度の想像力一つ働かせることができなかった。
 そうして思い知らされた。自らの戦争知識が、あまりにも事件の羅列に偏っていることを。
 戦争を知るということは、犠牲者の数を覚えたり、空襲の日やその経緯を知ったりすることではなく、こうして奪われた命が、それこそおびただしくあったという、絶望的にまで膨大な記憶を自らに置き直してみて、灰燼の中から一つ一つ立ち上げていく行為にあるのではないのか。
 こんなことに気付くまでに、血のめぐりの悪い私は十年以上の月日を要した。
 それを一般化させることはとてもできないと思う。思うけれども、果たして六十六年という月日は、それを歴史の無関係な境涯に追いやれるほど長い時間なのだろうか。
 暑く、白く照りつける太陽の下、やはり八月は快晴であるべきなのかもしれないと、私は思いはじめていた。
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