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陽光礼讃

 かつて寄席は、現在の私達が想像するよりもずっと身近なものでした。
 岡本綺堂は「修善寺物語」や「半七捕物帳」の作者としてつとに知られておりますが、明治の東京風俗を多く今でいうエッセイに残しております。
 その中で寄席について触れた個所で、東京の「各区内に少なくとも三、四軒あって、その主なるものは五、六十軒。これに浪花節の寄席や場末の寄席を合算すれば、まず百軒以上であろう」と書いておりますから、これはよほどの数です。
 ちなみに申し上げるなら、この記事が書かれたのは明治の三十年代なかばのことです。東京区内といいましても、現在の二十三区とは異なります。当時の東京中枢は十五区で、東は本所深川まで、西は四谷赤坂、北は本郷、南が芝が限度となっておりました。例えば葛飾、品川、中野などは当時東京郊外ということになります。
 ですので、東京は現在と比べるよりもずっと狭く、そこに百軒以上の寄席が密集していたわけです。
 それがほぼ常設寄席で、時期を決めて開設されていたものを含めれば、これは膨大な数になったものと想像できます。
 その寄席で毎晩のように高座が立てられる。そうなりますと、もちろん公演のしかたも現在とは大きく異なっていたと考えられます。

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