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腐敗せぬ亡骸 -青少年健全育成条例改正案への反対の意を込め

 今から十五年以上前、多分二十年もいかない頃のことだと記憶しております。
 当時からお昼の顔といえば、今も変わらぬ黒眼鏡のあの方でした。
 日替わりにゲストを呼んでトークを行うあのコーナーの前の、マクラのような語りで、そろそろ前髪前線の後退がネタとしても定着しつつあった司会者は、実に何気なくこんな語りをされました。

 年をとると目が悪くなるっていうけれども、それだけじゃなくて、頭が一つこれと思うと、もう引っ込みがつかなくなるんですよ。このあいだも、何人かと食事に行った時に、車を停めにいってるのを店の前で待っていたら、ネオンに混じって「ロリータクラブ」っていう看板が見えたんです。これで、もうすっかり興奮しちゃって、「世の中にはこんなにいいミセがあるのか」と思って、あわてて連れを呼んだんですよ。「おい、すごいもの見つけたぞ!」って。で、いっしょにそいつと見てみたら、そこに書いてあったのは「ロータリークラブ」で……

 話の内容としては他愛もなく、場つなぎのトークに過ぎませんでしたが、氏の独特の粘っこい口調もあってか、収録スタジオの観覧客は結構声をたてて笑っていました。
 語った司会者はもちろん笑っている観客の声にもまったく屈託はありませんでした。
 現在の状況を考える時、私はついこの光景を思い出さずにはいられません。
 今、こうした笑いを、なんの屈託もなく想像することができるでしょうか。
 一つの言葉を殺すというのはこういうことをいいます。
 たしかに、無意識に使われる故に、特定の人を傷つけてしまう言葉があるのも事実でしょう。
 しかし、そういう場合には、何故その言葉が人を傷つけるのか、その使用と変遷の歴史を追い、証明づけた上で使用を控えるように行動するのが、言葉にたずさわる人間の義務であるとも思います。
 そうして初めて、言葉は消えることができるのです。
 殺された言葉は、無残な死骸を私達の目の前にさらして、常に離れることがありません。
 しかし、殺されたが故に、私達はそれを使うこともできず、ただ目を逸らして触れないようにするほかないのです。
 これは言葉ばかりに限らない話です。
 単純に力を持った人間の一声に流されて、表現のスタイルの死骸を積み重ねることを選択するのは、ひいては文化自体に傷を負わせ、やがて殺してしまう道を選択するのにほかなりません。
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