スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010年岩波重版の旅

 岩波文庫の夏の一括重版が行われました。
 今回増刷がかかったのは全23種30冊の書籍となっております。(詳細はコチラ
 ゲーテの『西東詩集』やダーウィン『ビーグル号航海記』、一般的には「ローランの歌」として知られているフランス中世武勲詩の代表作『ロランの歌』のように、「え? コレ品切れになっていたの?」という作品から、専門色の濃いものまで、書名を眺めているだけでも心躍るラインナップとなっています。
 その中でも個人的に思い入れ深いのは幸徳秋水の『兆民先生 兆民先生行状記』と渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』です。
 兆民先生こと中江兆民は明治初期を代表するジャーナリストであり政治家であり文章家ですが(もっとも明治初期にこの三つを兼ね備えなかった文章家はいないのですが)、幸徳秋水は二十歳になる前よりそのもとに書生として入り、最晩年にいたるまで親しく謦咳に接しておりました。『兆民先生 兆民先生行状記』は兆民没後、師の面影を文章にしたためた二著をまとめたもので、兆民の文章と並んで明治を代表する名文の一覧となっています。
 その筆致は時に兆民の溢れる情熱を躍動感もって伝えるものの、おおむねやさしく穏やかで師に対する思慕と敬愛の念に満ち満ちています。
 秋水はご存知のとおり後に大逆事件の主犯としてまつりあげられ絞首台の露と消える運命を背負っているのですが、アナーキストと罵られ、日本の政財界にヒステリックな忌避感を覚えさせるほどの狂気をはらんだ凶暴性というものは、私にはこの文章からは読みとることができないのです。
 もう一方の渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』は、その題名が示す通り、15世紀から16世紀にかけておこった近代化の波を、その時代に生きた人々の評伝を列記することで表すもので、総勢十二人のルネサンス人の横顔を読者に見せてくれます。
 しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロを擁したイタリアと異なり、フランスのルネサンスというとはたしてどれほどの知名度を持っているでしょうか。かくいう私もはずかしながら、本書を読むまでだれ一人として概説でもその伝記を知ってはおりませんでした。おそらくは名前が知れているのは、キリスト教における宗教改革の立役者の一人であるジャン・カルヴァンおよび、それと思想的には真っ向から対立する形となるイエズス会の創始者イグナチウス・デ・ロヨラ、いや、むしろ、なによりも予言で名高いミシェル・ド・ノートルダム(筆名をノストラダムスといいます)が最も知られた人で、残りの9人は、今ですら専門でフランス史を学んだ人でなければ名前の聞き覚えもないという人物となるでしょう。
 多くの面があることを承知であえて申し上げますが、イタリアルネサンスを陽とするならば、フランスのルネサンスはまさに陰と呼ぶべき時代でした。
 先に述べたカルヴァンによる宗教改革により新教と旧教の間の対立は深まり、両派ともに相手を異端、人間にももとる悪魔と罵り、火刑台に多くの人々が送られ、屠殺されていきました。そして、そのしめくくりというべき、血で血を洗う宗教戦争のお膳立てをしてルネサンス期は幕を下ろすのですから、人類の叡智による新しい発見発明はありましたが、フランスの場合、それがことごとくむごたらしい方向に進んでいく印象があります。
 渡辺一夫は、けれども、そうしたたいへんに非道徳的な(著者の言葉でいえば「非寛容な」)時代を丁寧に、時に目をそむけさせるような描写もあえてまじえつつ、ルネサンスの進展を描いていきます。そのように進めても、行きつくところはさらに大量の流血の待つ時代であるのは、既に書いたとおりですが、それでもなお、平和の時代に戦争の足音が響くのと同様、著者は血にまみれた時代のなかにも、ほんのわずかにでも人が人として生きていける精神の曙光を見てとり、それを取り出して読者に提示してくれます。
 戦後間もなく、大江健三郎が本書の元となった書物を読み、大きな感銘を受けたのもむべなるかなと思わせられます。
 同じく岩波文庫に入っているミシュレの『魔女』とともに読まれるべき、非常に雄弁な歴史書といえるでしょう。
 今年2010年は幸徳秋水の刑死させられることとなった大逆事件より数えて100年目にあたります。
 近代化を急ぎいびつな形で国民国家を形成しないわけにはいかなかった20世紀の日本という国に殺された一人の著作家と、1901年奇しくも20世紀の幕開けの年に生を受けその後いびつな帝国に翻弄されながらも知と文章で抗い通した一人の学者の本が、こうして偶然とはいえ同じ時期に復刊されるということはとてもうれしく思います。
 願わくば、この偶然を単なる偶然とすることなく、新たなバトンとして受け継がれてんことを。
スポンサーサイト

ねんがんの 「地底の足音」を てにいれたぞ!

 遅まきながら水木しげるの『魍魎 貸本・短編名作選』を買ってきました。
 収録されている「地底の足音」はほとんど15年越しに、読むことがかなった一編なので、感慨もひとしおです。
 この作品は水木漫画としては一般的にはマイナーな部類に入る(なにしろ初出が昭和37年の貸本マンガなので)ですが、ある趣味の人々にとっては知る人ぞ知る……要するにマイナーな作品です。
 それでも、個人的に私がずっと、この一編を読みたいと思っていたのは、ひとえに、これがH・P・ラヴクラフト作品の翻案である故です。
「水木しげるが翻案?」
 などと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、氏には他にも山田風太郎の「忍者枯葉塔九郎」を原作とした「大いなる幻術」やモダンホラーの名作W・W・ジャコブズの「猿の手」を漫画化した作品などがあります。
 そもそも神様手塚治虫も「バンビ」や「ピノキオ」を翻案しておりますので、昭和40年代くらいまでの漫画業界では、無断借用なんてあって当たり前の状態だったわけです。
 そんななかでも、この「地底の足音」は原作のマイナーさから、これまで復刊の機会が少なかったため、私も手にすることがかないませんでした。

 元になっているのはH・P・ラヴクラフトの「ダンウィッチの怪」。現在ではクトゥルフ(クトゥルー)ものの代表作として数えられる一編で、ファンとしては、これを水木しげるがどう料理しているか気になるところでした。
 原作はダンウィッチという小村にあるウェイトリィ家に生まれた奇怪な子供にまつわるホラーストーリーで、まだしっかりと読み比べたわけではないので、細部の差異を云々することはできないのですが、大きな違いは「ダンウィッチの怪」がウェルバー・ウェイトリィを中心としたウェイトリィ一族の年代史のようにして展開されていくのに対して、「地底の足音」が青山という鳥取大学の学生を主人公に据えているところでしょう。
 こちらの方が、怪異の一つ一つに感情移入でき、物語に没頭することができます。
 また、舞台を日本の山陰に移しているところも秀逸でしょう。山と海に挟まれ、それでいて乾燥した雰囲気と冬の寒さが真に迫ってきます。原作のモダンな情緒はありませんが、日本独特の土俗性がそれにとってかわって、遠い国の物語として読まれがちなラヴクラフト作品が肌に染み入ってくる気がします。
 内容はほぼ「ダンウィッチの怪」そのままですので、お話しすると二重の意味でネタバレになるので慎みますが、割と重要な小道具である夜鷹の扱い方は「地底の足音」による拡張的解釈で、これが物語に深みを与えているように思えます。

 私が手に入れた作品集は去年出た文庫叢書の一冊で、他にも13編の掌編から中編がおさめられています。執筆時期は昭和34年から昭和54年までの多岐に渡りますが、その時期時期でタッチが異なるのが興味深いです。
 特に昭和30年代のものはまだ筆づかいも荒く、収録されている作品でも「水虎」や「大逆転」に見られるようないわゆる水木調は薄いのですが、逆にアメコミに影響されたように思える絵柄が新鮮で、私などはこちらの方がおもしろく思えました。
 特にサスペンススリラーの「おゝミステイク」は、視点が最初は都会のポップなところに注がれているのに、物語が進むにつれて裏街などのうらさびれた場所に変化していき、主人公の切羽詰まった感じが読者にも伝わってきます。

 そうして一冊読み通して思うのは、舞台や時代を移しましても、日本の場合、恐怖を扱う創作はホラーという横文字で表されるものではなく、やはり怪談がベースになっているのだなというところで、考えてみますとラヴクラフトの「アウトサイダー」を初めて訳したのは、小泉八雲『怪談』の訳者でも知られる平井呈一であり、それも必然のことなのかもしれません。

筆跡と足跡

 はっきりとしたログの残るサイバースペースで、伝言ゲームや口伝が当たり前に成り立ち、またそれを必要とする集団が必ず存在するのは何故か?

 最近友人が提起した問題なのですが、これは結構現在の日本のネット社会に対して根本的な問題を孕んでいるように思え、ここのところ少し考えをまとめておりました。
 とはいいましても、素人の駄弁であるのにはまちがいなく、せめてその拙さをご笑覧いただけますと幸いです。

 多くの匿名掲示板が林立して以来、日本は、おそらく世界は古今未曾有の大量文字消費時代に突入しています。そして、その多くは「○○で聞いた」や「△△で見た」という伝聞形式で成立しています。それはブログやmixiなどの、記名式発言空間が増加してもなお、それどころかwikipediaの登場以降はますます加速度的に進んでいるといえるでしょう。
 インターネット世界では、多くのページでログが記録され、Internet Archiveなどのように、その記録集積を目的としたサイトすらあるほどなのに、そうした出典を明確にしない伝聞形式が採用されやすい理由はどこにあるのでしょうか。
 その一つに、ログは残されるが変更可能なものでもある、という点が指摘されるでしょう。
 サイトのページは基本的にいつでもいくらでも書き換えることができます。例えば紙に書きつけた文字を書きなおす時のような痕跡(消しゴムの痕、鉛筆の傷、修整液の盛り上がりなど)が残らず、書き換えたという事実が保証されなくなります。そのそのため、ネットにおいては記述や発言の時間的な遡行は、最終的には行い得ないことになります。
 だから、「自分は見た」「自分は聞いた」というコメントにも、ある程度の信憑性が発生してくるのでしょう。
 しかし、そうした発言にある種の反復性、常習性がそなわってくるのは何故なのでしょうか。
 そこにも一つ、痕跡の問題がかかわってくるように思えます。
 スタイル。英語やフランス語のstyleは語源をラテン語のstilusに持ち、これは「先端の尖ったもの」を意味し、また、同時に蝋板に文字を書きつけるために用いた尖筆を指します。
 つまり、個人のスタイル、他者から自己を峻別する個性の表現は、なにかに刻み込まれることを前提としているのです。
 ところが、上述したように、ネットではこの刻み込むという行為自体が、実際にはだれにも保証されないものなのです。それは第三者ばかりでなく、自身も含めてです。
 つまり、ここでは発言や記述によって、アイデンティティを主張することは不可能なことではありませんが、とても困難なことになります。
 不可能ではないというのは、二つの点によります。
 まず一つ、ログやサイトページへの書き込みは変更可能な点から、それが痕跡として役に立たないのですが、それを閲覧したという記録は残ります。自分の住所を示すIPアドレスなどがそれにあたります。なにを言い、なにを書いたかは保証されなくとも、何処にいたかの一点は、常に監視され記録されることで、たとえ自身で閲覧することはできないとしてもそれは保証されているのです。
 そしてもう一点はタイムラグの介入です。書き換えという行為は痕跡を残さないとしても、行われるためには、最初にあったテキストを別のものに入れ替えるという、二つの時点が必要となります。それはほんの一瞬の出来事かもしれませんが、必ず二者の間には時間が存在します。
 つまり、記名のもとで行われた発言の後には、それが自分のものであると確信できる時間があるということです。
 だからこそ、人はネットであっても、いえ、ネットであるからこそ「自分は見た」「自分は聞いた」という発言を行わずにはいられないのでしょう。そして、有効期間の過ぎた後には、その自分の発言すら出自の曖昧な、だれのものでもないものとなってしまうため、改めてくりかえさないわけにはいかなくなるのでしょう。

65回目と78回目

 ちょっと油断すると、すぐに更新が止まってしまいます。こんばんは。
 その久しぶりの記事が宣伝というのも、いかにもブログっぽくて、逆にいいかなと思ってしまいますが、思っているのは私だけですね、どうもすいません。
 で、その宣伝というのは、ほかでもなく、毎年夏と冬のお約束、東京都の偉大なる税収源の一つであるコミックマーケットへの参加につきましてです。

 3日目:8月15日(日)
 ピ-32b 有滑稽

 にて、お待ちしております。

 今回の新刊は「宗像教授巷間抄」。
 御覧の通り、星野之宣の「宗像教授」シリーズのパロディ小説となっております。
 このシリーズは最初の『伝奇考』の頃から単行本で追いかけており、思い入れも深い作品ではあるのですが、まさか自分でパロディ本出すとは考えてもいませんでした。
 きっかけを与えていただいた、友人諸氏に深く感謝です。
 形式については、『伝奇考』から現在連載中の『異考録』にいたるまで(といいますか、その間に刊行された『伝奇考』の特別編まで)の、宗像教授の休職中世界漫遊時代を背景として、各地で喧伝されている宗像教授の目撃情報を紹介するという、文化人類学のフィールドワークのパロディ的な面も試みてみました。
 取り上げているのは、フランスの民話に登場する「夜の洗濯女」という妖怪について。こちらはジョルジュ・サンドの『フランス田園伝説集』(岩波文庫)に詳しいです。
 そこから広がる網の目状の連関について、どのあたりまで原作の雰囲気を出せたものか、これはまったく本人では想像もつきません。
 ただ、知識のない分については、牽強付会と妄想でカバーしてみました。
 当日、今回も緩衝スペースとしての任務を果たしていると思いますので、行列に並びすぎてくたびれた時に、骨休めのお越しを是非ともお待ちしております。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。