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満月の夕

 大正という時代に興味を持った理由はいろいろとある。
 いわゆる大正モダニズムという文化が気にかかり、その時代背景を知りたいと思ったから。不況を背景とした社会情勢に現在と同じ雰囲気を感じたから。けれども、なんといったところで、結論的には祖父が大正生まれだからというところに落ち着く。
 祖父は大正十一年だから一九二二年大阪に生を受けた。元来口数少なく、余分な贅肉はもっと少なく、質実剛健を地でゆき、かといって頑固すぎることもなく新しいものにも柔軟性をもって接していた。要は私とまるっきり正反対の人間だった。
 幼年時代はただおっかない存在だった祖父をいつから尊敬の目で見だしたものかは定かではないが、特に文学においては自分の興味関心を引くものは祖父を中心に考えていた節が多分にある。
 そもそも山田風太郎などという作家を研究の第一テーマに据えたのも、この奇想の作家が祖父と同い年の大正十一年生まれだったというところが大きい。
 祖父はあまり語ることが少ない人物だった。それが珍しく、ましてや自身について重い口を開いたのは、ある秋口の涼しい風が吹き出した夕方のことだった。
「東京の地震のときは、あれはこわかったぞ。ガガガガと揺れて、あわてて外に出たら、近所の家の壁がぐらぐらと揺れていまにも倒れそうだったんだ」
 東京の地震とは、この場合関東大震災を指すのだが、いかな祖父といえども大阪にいて東京の地震を感じることはできまいと思うし、大正十二年九月一日、つまりは自分が生まれて一年と少しを経たころのことなど覚えているとも思えないので、おそらくはその後の地震と記憶を混同しているのだが、今となってはそれを知る術もない。
 ただ一つはっきりしていることは、地震が起こって七十年を経ても、たまに記憶に蘇るほどにこの震災が喧伝されていたということである。
 そして、私の文学人生を大きく変えた人物のもう一人である内田百間を身近に覚えるきっかけとなったのは、実はこの関東大震災がからんでいる。
 内田百間は関東大震災で一度死んだ作家である。
「著書『冥途』一巻、他人の廡下に立たざる特色あり」と芥川龍之介によって推奨された文壇登場作品集『冥途』はほとんど人の目に触れなかった。
 時代を先取りしすぎていたというわけではない。この著書を担当した稲門堂という古書店兼出版社が関東大震災の災禍を被り焼亡、『冥途』の在庫および紙型も失われてしまったのだ。
 それが『冥途』出版からわずか一年後のこと、つまりは百間が文壇に名前を出したのは大正十一年だったのである。
 それから十年、再び内田百間という名前が浮かびあがってくるのは大正を過ぎ、推薦者である芥川龍之介も鬼籍に入って久しくした昭和十年前後のことである。
 文壇登場直後のつまずきになったからというわけでもないだろうが、百間の書く震災の思い出は印象深いものが多い。
 特に個人的に語学を教えていた長野初という女生徒の思い出を描いた「長春香」と、それにまつわるいくたりかの文章、「入道雲」「塔の雀」などは、愛情と哀惜の入り混じる非常に美しいしあがりになっている。
 百間の文章の美しさは感情を隠蔽しない、少なくとも読者にとってはあけすけに書いていると思わせる筆法を用いているところにある。
「入道雲」において、最初の大きな揺れを感じた直後の一節、

 何もかも滅茶苦茶になってしまえばいい、とこの頃しょっちゅう考えていた。時々独り言にまでそんなことを言った。自分の力では、自分を十重二十重に取り巻いている煩累の絆を解く事も打ち切る事も出来ない。する事なす事がみな新らしい矛盾を重ねる事になって、現に今朝お金に換えた小切手も、前々から取引のあった金貸の振り出したものである。新秋の旅行は新らしい借金を負う為に出かける様なものであった。何もかも滅茶苦茶になってしまえばいいという念願が、今の地震で達せられたかどうか解らないが、俥の上でゆすぶられた時の気持は、生まれてこの方味わった事のない恐ろしさであった。しかし、その恐ろしさの底に、痛快とでも言いたい様な気持がある。家の外で地震に遭った為に、門の倒れるのや、石垣の崩れるところは見ても、戸障子が外れて、壁が落ち、瓦が飛ぶ音を身近に聞かなかったから、案外のんきであったのであろう。まだ大地の揺れ止んでいない往来の上をまた俥に乗って家に引き返す途々、そんな事を考えていた。

 などは、感じたとしても、多くの人々は深く秘して、それを奥底に隠しておくものである。
 例えば、永井荷風のように。荷風は発表を期していなかった日記の大正十二年十月三日の部に記している。

 帰途銀座に出で烏森を過ぎ、愛宕下より江戸見坂を登る。坂上に立って来路を顧れば一望唯渺々たる焦土にして、房総の山陰遮るものもなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れというも愚なり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈傲慢、食欲飽くことを知らざりし有様を顧れば、この度の災禍は実に天罰なりというべし。何ぞ深く悲しむに及ばんや。民は既に家を失い国帑また空しからんとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面というべきのみ。

 荷風のこのあまりにも苛烈にして、即座に自身に振り返る傲慢な筆鋒は、しかし、ある程度までは一般化できる感情なのではないだろうか。
 百間はその感情をたまたま震災から十三年後に「入道雲」という文章にしたためた。荷風もいずれ自分の日記が公刊されるであろうことを知りながら、その部分を削除することなく、かえって浄写までして保管した。
 けれども、あの一月一七日から十五年を経た今日、私達はあの日に感じた思いと真摯に向き合っているだろうか。
 わかりやすい哀惜の思いばかりで糊塗し、経験を粉飾してはいないだろうか。

 前の日にやった事は、必ず全部暗記して来なさい、解っても解らなくても、それが何のつながりになるかと言う様な事は、後日の詮議に譲るとして、ただ棒を嚥み込む様に覚えて来ればいい。解らないと思った事でも、覚えて見れば、解って来る。覚えない前に解ろうとする料簡は生意気であると私は宣告した。

「長春香」にて百間の書く一節である。原文では語学の初学について教える個所だが、経験を語るということは、一つの語学を形成するのではないだろうか。そして、私達は知らず生意気に堕しているところはないだろうか。
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狐の飼育の周囲をめぐるだけのお話

 昨日友人諸氏とお話させていただいている折、流れから「狐の飼育の歴史」について話題が及びました。
 話の主題は「妖異に現れる狐」だったのですが、「そもそも人間と狐はそれほど近しい存在だったのか」という疑問が提示されまして、次いで「狐は人間に飼われていたのか」にたどりついた次第です。
 それでふと気になることがありまして、ちょっと調べておりました。
 狐を飼うといいますと、まず思い出しますのは内田百間の「葉蘭」という作品です。昭和十六年刊行の作品集『船の夢』に収録された一編で、初出は「都新聞」の一月中に連載された一文といいますから、時期もちょうど今時分の作品です。
 友人からもらった狐を飼い始めた。思ったほど手間もかからないし臭いもない。置く場所がないから茶の間の縁の下に押し込めている。すると今まで気にならなかった縁の下から続く庭先の景色が気になりはじめた。特に他の草木が枯れたなかで唯一葉をつけている葉蘭のことがいちいち頭に浮かぶ。夕飯を食べていると、さわさわと音がしたので、風で障子が鳴ったのか庭先に狐が這いだしてきたのかと思ったら、葉蘭の葉ずれの音だった。狐がいると物騒だと妻が怖がっているが、要は慣れの問題だろう。明るくなったら縁の下をのぞいて観察してみたいと思う。
 単行本になおして二ページほどですので、要旨といってもほぼこれだけの作品です。ところが、単純なエッセイだと思っていたこの作品がほぼ創作であったことが、翌年刊行された『沖の稲妻』に収録されている「作文管見」で明かされます。

 もう一つお話ししますと、私の庭に葉蘭がある。その葉蘭の葉を叙述しようと思う。その叙事文に、私は文章の上の一つの方法として、檻に這入った狐が縁の下にいて、夜分になるとそれががたがた暴れる。そういうことを書いた方が葉蘭を描写する上に適当だと思ったとする。そうしてそれを試みたのです。すると、後になって私のその文章を読んだ友人が「あなたのところに狐がいるそうだが、その狐を今度見に行く」と言う。「いや狐は私の家にいるわけではない」と言っても「現にそう書いているじゃないか」そう言うのです。

 この「作文管見」は百間の文章観を端的に知ることのできる講演筆記なのですが、それはおいておきまして、ここからわかるのは狐を飼うというのが昭和前半でも珍しい行為にあてはまったらしいことです。
 考えてみますと、永井荷風の「狐」に代表されるように、狐というのは害獣の一種として殺されることが多い獣のように思えます。
 うちの乏しい資料でも例えば『北越雪譜』中の「狐を捕る」などには、生け捕りではなく水攻めにして完全に殺してしまう記述がありますし、どうもそれが当然のことのように描かれています。時代はずいぶんさかのぼって『宇治拾遺物語』の「狐、家に火附くる事」でも、ふと狐をみつけた侍がいきなり弓ひきしぼって射かけるという場面があり、そりゃ狐でなくても恨みに思って家に火も放とうというもんです。
 それでいろいろと調べておりまして、ようやく狐を飼うという文章に出会ったのが『耳袋』の「狐福を疑つて得ざる事」です。
 本郷富阪の松平中屋敷に勤めていた中間が、屋敷の縁の下に生まれた子狐を憐れに思って餌などを与えて育てていると、ある日の晩の夢にその狐が出てきて「何月何日の谷中感応寺の富札を買いなさい」と教えてくれた。しかし夢のこともあるし、それを信用しないで、富札も買わずにいたところが、夢のお告げの通りにあたりが出た。残念なことをしたと思い、以後ますます狐を大事に育てたが、それっきり変事は現れない。
 やはり、犬猫のように狐を飼うということ自体がかなりまれで、だからこそこうした随筆集にも残されているような感触を覚えます。
 中野美代子の『仙界とポルノグラフィー』所収の「天子の動物園」には、日本では変わった動物をコレクションする風習に乏しかった旨が指摘されていますが、特に独自解釈の仏教的な倫理観が手伝い、獣を飼うという行為についてはかなり保守的な部分が強かったように思えます。
 けれども、だからといいまして、狐を飼うということが行われていなかったのかというと、少々怪しくも思えてきます。
 話が戻り、内田百間に「稲荷」という作品があります。
 子供時分の稲荷社についての思い出を語った二部構成の作品ですが、その後半部分で、町の方々で家の戸が叩かれるという変事が起こった翌日近所の稲荷堂の「お使姫のお狐様」が長鳴きをしていたことが知らされたという叙述があります。
 また、幸田露伴の「魔法修行者」には、

明らかに狐を使った者は、応永二十七年九月足利将軍義持の医師の高天という者父子三人、将軍に狐をつけた事露見して、同十月讃岐に流されたのが、年代記にまで出ている。やはり陀枳尼天法であったろうことは思いやられるが、他の者に祀られて狐が二匹室町御所から飛出したなどというところを見ると、将軍長病で治らなかった余りに、人に狐をつけるなどということが一般に信ぜられていたに乗じて、他の者から仕組まれて被せられた冤罪だったかも知れない。

という個所があります。
 露伴の引用は直接狐の飼育にはかかわりがありませんが、室町期においては既に狐が表す兆しが一般に信じられていた一つの傍証で、例えば神職や呪術師においては狐が秘術的に飼育されていた可能性を考えさせるように思えます。
 文献も少なく、とても考察ともいえない一つの妄想ではありますが、追って識者の御高説を排したいと思います。
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