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異界をつなぐ橋

 先日、何気なく読んでいた本に、気になる記述があり、そこから手の伸ばせる範囲で調べ物を進めてみますと、思ったよりもスケールの大きな話に展開しそうな予感を覚えました。
 もとより、文化人類学も歴史学も専門とはしない人間の手に余る題材ではありますので、はたしてどこまで突っ込んで調べられることかわかりませんが、まずはそのほんの端緒といたしまして、いくつかのデータをここに写しておきます。

1:発端

 悪魔が手を貸したのはおもに橋を建設するときだった。建築家や技術者が技能不足だと感じると、悪魔が顔を出すのである。ヨーロッパでは沢山の橋が「悪魔の橋」という名を持っているが、これらの橋はそれぞれ似たような伝説を持っている。イギリスにもスペインにもこうした橋がいくつかあり、ドイツには《悪魔の橋》は大変多い。スイスでは、アインジーデルンにあるパラケルススの生家の脇にかかる橋が今も有名だ。フランスにあっては、ボージァンシー、ポン・ド・ラルシュ、ヴィェイユ・ブリウド、オルテスなどをはじめとしてたくさんの橋が悪魔の強力な助けをかりてかけられた。

グリヨ・ド・ジヴリ『妖術師・秘術師・錬金術師の博物館』林瑞江訳(法政大学出版局、1986) pp. 174-176


 この「悪魔の橋」に興味を持ったのは、その一つとして紹介されている、フランスのカオールにあるヴァラントレ橋を目にしたことによります。
                     ヴァラントレ橋
 この14世紀の大半を用いて作られた橋の美しさと、悪魔という存在の対比がとても面白く思えたのです。
 そこで別の「悪魔の橋」について調べてみることにしました。
 まずは上記ジヴリの書でも言及されている中世ドイツの奇人医術者パラケルススを手掛かりにしました。パラケルススことフィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムは1493年末もしくは1494年のはじめにスイスのアインジーデルンに生まれたとされています。その父ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムは祖父ゲオルクの庶子であり、遺産を相続することができず、窮乏のなか医者として遍歴修行に出ることになります。

 彼(ヴィルヘルム:引用者注)の旅程は南ドイツからスイスへと向かう。風光明媚なチューリッヒ湖の南岸をめぐり、古くからの巡礼の道がエッツェル森深い山を越えて、霊地アインジーデルンへと続く。巡礼地の教会堂へは、谷底深く流れるジール川を渡らねばならないが、ここに掛けられた橋は古くから「悪魔の橋」(Teufelsbrücke)と呼ばれていた。この橋のたもとの宿屋にヴィルヘルムは旅装をとき、ここの娘と結婚することになる。

大橋博司『パラケルススの生涯と思想』(思索社、1988) p. 11



2:エピソードのパターン
「悪魔の橋」にまつわるエピソードには一定のパターンがあるようです。
 その一つが、「技術的に当時の人々では架橋できない場所に、悪魔の力を借りて橋を建造する。悪魔は代償として最初に通るものの魂を要求するが、人間ではない別の動物を渡らせることでやりすごす」というものです。
 この別の動物というのは、猫であったり馬であったりと様々に変化しています。

3:日本での類話

鬼橋 〔諸国里人談巻一〕備後国帝釈山の谷川に橋あり。石を以て切りたてたる長さ廿間、幅三間の反橋なり。これを鬼橋と号く。土俗の説に、神代の昔、梵天帝釈天くだり給ひ、数万の眷族の鬼来つて、一夜の中に全く成るといひ伝へたり、むかしはこの橋を渡り得れば浄土に至り、渡り得ざるものは地獄に堕つといふ。今はわたる人なし。故に草木茂りて山とひとしきなり。

柴田宵曲編『奇談異聞辞典』(ちくま学芸文庫、2008) pp. 109-110



4:東西のエピソードの差異
 なにぶんまだサンプルが少なすぎて、異同を語れるレベルでもないのですが、一つの茫漠なる仮説として、東西の人外の者の手による橋の差異は「語られた時点でその橋が利用されていたか否か」が挙げられる気がします。
 10世紀にはヴァイキングやトルコ人といった外敵の侵入を完全にシャットアウトできたヨーロッパ人ではありましたが、それは必ずしも安穏な生活を約束したわけではありません。以降も各地で戦乱は起こり、こぜりあいはそれこそ数限りなく存在しました。
 ルネサンス期を過ぎても、そのあたりの状況はあまり変化していなかったともいわれます。
 つまり、多くの闘争の結果、かつての住人が殺戮され尽くし、そうでなくとも離散させられた結果、建造物の由来が判然としなくなったものが多数あったのではないでしょうか。多くの建物は打ち壊され、焼かれたりもしたでしょうが、橋はそうはいきません。自分と主義主張を異とする人々の造ったものとしても、それは生活にとって重要なものだからです。
 新しい住人からすると、その建築法が想像もつかないこともあったかもしれません。それを「悪魔の造ったもの」として蔑視していったのではないでしょうか。
 そうした戦闘や住人の入れ替えの有無が東西で話の相違を生んだように思えます。
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archive architecture

 知人のゆらりひょんさんのブログにて、 一冊約八十万円という図書館の写真ばかりを集めた特装本『Temples of Knowledge』が紹介されておりまして、そこから著者Ahmet Ertugのサイトへ飛びますと、一部が閲覧できるようになっております。
 一枚一枚眺めているだけでも、ほうとため息が出てしまう知の集積所であり、揶揄であったとしても「象牙の塔」などという力強くも美しい形容が何故用いられたのかがわかる気がしてきます。
 かつて書物は財産であり力の象徴でもありました。特に印刷技術が発達する以前の中世においては、知識はごく限られた場所にしか、写本という形でしか存在しませんでした。
 これは書物といいますから、なんとなく青白い、脆弱なイメージを与えるかもしれませんが、たとえば地図や各地の人口や作物収穫量の調査統計も含まれると考えると、より実感をともなうのではないでしょうか。現在ではだれもかえりみることのない『○○町史誌』のような書物も、それしか参照するものがないとすれば驚異的な一冊となるわけです。
 修道院に図書館が多い理由も、日本の荘園制度などを考えていただければ分明のことだと思います。それだけ、ヨーロッパの修道院や寺院という場所は、周辺地域の統治に利用されていたというわけです。
 そこに古代からの狩猟文化の発展である製革技術があいまって、価値ある書物の伝統が作られてきました。
 聖書からはじまり力を秘めた書物という発想も同時に起こってきたのでしょう。そして、それを収める図書館に対する畏敬視が生まれたのも同様のことだと思います。
 バスチーユの牢獄にかの『百科全書』が、多くの政治囚(マルキ・ド・サドも「同窓」であったといいます)と同様に収監されていたという事実も、こうした本の価値に対する畏れの顕れの一つといえるのではないでしょうか。
 本好きにとって、一冊の本に対して、たとえ現代とは事情の異なる往昔の時代においてであれ、内容以外でなんらかの価値観が付与されていたことは、少なからず背筋の冷たくなる思いを抱かされずにはいられません。
 けれども、例えばホルヘ・ルイス・ボルヘスの「バベルの図書館」やウンベルト・エーコの『薔薇の名前』といった作品が、少なからずこうした書物・図書館感覚を踏まえた上で成り立っていると考えるとき、不寛容の歴史も血の臭いから離れながらも自覚して手に取らなければならないのかもと思えるのです。

大つごもり

 冬のコミックマーケットに当選いたしました。

 サークル有滑稽
 12月31日 西り27a

 です。

 新刊としましては、内田百間先生を主人公とした物語「占領下の百鬼園」の第3話および、もう一冊なにか書けたら出すつもりです。
「占領下の百鬼園」は連作ですが、特に前の話を知らなくとも問題ないような話の構成となるはずです。
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