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縁は医なもの

 もう少し前になるのですが、ここ最近懇意にしていただいている方より、独自意匠の手ぬぐいをいただきました。
 人の縁というのはありがたいものだと、喜びを噛みしめながら、使うのももったいなく、人目のないところで取り出してはそれをながめまして、ぐふぐふふと笑う姿は、客観的に見るまでもなくかなり気持ち悪いもので、そんなマジきもいな姿を何度かくりかえすうち、ふとデザイン内に織り込まれたある単語に目が留まりました。

「医心方」

 和綴じの書物の絵の、その題箋部分に書かれておりますので、書名らしいことはわかります。
 しかし、この名の文字には、なにか引っかかるものを覚えます。乏しい記憶をくすぐる、見覚えとまではいかない胡乱な霞が頭にたちこめてきました。
 そこで、いろいろと部屋の中をひっくり返しまして、ようやく目当ての本を発見できました。
 森鴎外の『澀江抽斎』がそれにあたります。
 大正五年の作ですから、鴎外晩年(鴎外の没は大正十一年です)といってもよい時期の著となるこの作品は、タイトル通り澀江抽斎という人物の詳細な伝記とその一族の考証となっており、江戸末期近くから大正まで綿々と続く人の流れを記したものですが、問題の「医心方」は「その四十三」から顔をのぞかせてきます。
 安政元年ですから西暦になおしますと1854年に、主人公である澀江抽斎は一冊の書物の彫刻手伝いを幕府から命じられます。
 その書こそが「医心方」で、章を変えて「その四十四」はほとんどこの奇書の解説にあてられています。
 それによりますと「医心方」は天元五年、なんと西暦982年に書かれ、その直後に皇室に奉納され、以来秘蔵されてきた「禁闕の秘本」というべき医書であるとのことです。
 その後、十六世紀の正親町天皇の手により、典薬頭の職にあった京都の半井家に下賜され、口外されることなく同家で大切に保管されていたのですが、太平の世となった後、人の口に戸は立てられぬものといいますか、蔵することが明らかとなり江戸幕府から何度も提出するようにとの命を受けます。
 ところが半井家は首を縦に振ることなく言を左右してのらりくらりとかわすばかり、はては天明期に起こった京の大火災により焼失したという虚言を弄してまで守り通そうとしたのですから、これはよっぽどのことです。
 幕府側もさるもの、それを虚報と知り、類似の品でもいいから提出しろとしつこく請求を続けました。
 そうしてとうとう根負けしたのか、半井家が「タイトルは同じですが、内容はもうまちまちでとてもお役には立たないでしょうが」と負け惜しみたっぷりに、しぶしぶと提出したのが先ほどの1854年というわけです。
 およそ九百年の時を経て、明らかになった「医心方」は驚異の書物でした。全三十巻三十一冊、中身は隋唐の医学書百冊以上から抜き書きを集めたもので、元になった書物の多くは既に失われて存在せず、その完本一揃えはこのワンセットしかないという代物だったのです。

 それゆえ天元五年に成って、永観二年にたてまつられた医心方が、ほとんど九百年の後の世に出たのを見て、学者が血をわきたたせたのもあやしむに足らない。

 自身も軍医を務めた鴎外だけに、この文章にたぎるものを感じるのも無理ないことに思えます。


 で、その『澀江抽斎』をパラパラと流し読みしておりますと、また別の疑問符が浮かんできました。
「はて、九百年後に世に出た医書って、なにかで見たことがあるんじゃないかしらん」
 今度は未読の本の山をゴソゴソと探しまして、ようやく発見したのが山田風太郎の忍法帖シリーズの一冊『秘戯書争奪』でした。
 それでここのところ、ひさかたぶりに風太郎の忍法帖を堪能しておりました。
 奇才の画家佐伯俊男の手による表紙がいつもながらすばらしい角川文庫版の表紙見返しの梗概を抜き出してみましょう。

 13代将軍の家定は”癇性公方”といわれ、すこぶる虚弱体質のうえに凡愚、最低クラスの将軍だったらしい。31歳にもなるのに世嗣ぎがいないのは『子供のつくり方』を知らなかったというのだ。
 すわっ、徳川家の一大事、なんとしても将軍様にお世嗣ぎを!
 そこで城中奥医師の多紀法印は秘策を練った。古来から宮中に伝わる門外不出の奇書『医心方』を入手することだ。これには陰萎早漏を治す秘術が網羅されているという。
 稀代の『奇書』争奪をめぐって、甲賀忍法vs伊賀忍法の死闘が始まった。

 これだけ読みますと、「医心方」が「カーマスートラ」のような性の秘典のような印象を受けますが、実際には第二十八巻「房内篇」という一冊があてられているに過ぎません。
 例えば貝原益軒の「養生訓」にも、やはり男女の交わりについての解説があるように、過去においても性愛の道は重要なものとされてはいましたが、決して秘すべきものとされていたわけではないのです。
 ところが、「医心方」も折角翻刻なった明治以後は、この「房内篇」だけはその内容のために禁書として刊行がさしとめられるという憂き目にあいました。
 その貴重さ故に秘匿されていたものが、今度はその過激なために秘匿されるというのは、なんとも人を食った喜劇というべきでしょう。
 この喜劇性を山田風太郎はさすがに一冊の長編小説に見事に仕立て上げています。方や徳川方、方や京の旧家方に立ち、二派の忍者が開国も間近に控えた安政の時代に秘術の限りを尽くして死闘を繰り広げるという設定からしまして、そもそも非常に皮肉ではありますし、さらにその死闘の方法が「房内篇」の内容を実際に実践するというものなのですから……
 男女の交接に主眼を置きながらも、決して淫猥やグロテスクに陥ることなく、むしろ清冽感すらあるのは風太郎のいつものごとくではありますが、むしろその道をテーマに選んでいるだけに、他の忍法帖シリーズよりもなおはっきりと山田風太郎の持つ死生観というものが浮き彫りになってくるように思えます。
 そして、最後の最後で、この物語自体の中心がどこであったかを思い出させるからくりがとても巧みで、読後感嘆するばかりでした。
 ネタを割るようなことをあまり口に出したくはないのですが、これを読まれる方は、是非まずは鴎外の『澀江抽斎』を読了されることをお勧めいたします。
「医心方」という奇書の題名が運んだ機縁が、実に鮮やかに渦を巻き、それが一つの綾をなす瞬間を味わわせていただきました。
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尾のない話

 眠りにつく前に、本の文字をながめながらまどろむ至福の時を、ぼんやりと枕頭に置いた曲亭滝沢馬琴の随筆『燕石雑志』のもくじに託し、読むともなくうつらうつらと文字を追っておりますと、ふと「恠刀禰 附九尾」と書かれた章題にとまりました。
「恠」は「怪」の旧字ですから「カイ」もしくは「ケ」でしょう。そして刀は「ト」、「禰」は「ネ」ですから、おそらく「ケトネ」。「附九尾」から考えても、これは「キツネ」のことを書いたものに違いあるまいと連想を働かせ、少々さめてきた目で本文を読んでみることにしました。
 この「キツネ」の条は、『燕石雑志』のうちでも長い部類に入る章ですが、大きく分けて内容は、

・安倍晴明の母親が狐であるという伝承の紹介と批判
・野干は狐であるということ
・狐の美女に化けることについて
・九尾の狐について

 の四項目となります。
 そのうち第二番目の「野干=狐」というのは、南方熊楠の『十二支考』および幸田露伴の「魔法修行者」などの批判文がありますし、安倍晴明云々についても伝承の紹介部はおもしろいのですが、その批判は少なからず興ざめという感があります。
 そんなわけで、私の関心は後半の二項目に集まっていきました。
 まず馬琴の怪異への基本的なスタンスをうかがいますと、戯作者として和漢の書に広い知識を持っていたとはいえ(持っていたから、かもしれませんが)、それを全面的に否定することはありません。
 この狐についての章でも、基本的に狐がなにかに化けて、人をたぶらかすという点については、特に懐疑の目を注いだりはしていません。
 ただし、なんでもかんでも狐のしわざといってしまうわけでもありません。
 その一つに、

 生けとし生けるものすべてに雌雄はあるのだから、他の生物と交わって子をなすなどということはない。それは狐についても同じことで、絶世の美女に化けて房中に入ることはあるかもしれないが、その結果として人との間に子をもうけるなんてことは起こりえない。

 というものがあります。それは敷衍されて、

 だから、狐が変化の術を使って人をたぶらかしたところで、それは一朝一夕のまやかしに過ぎない。むしろほんとうに恐ろしいのは、延々と続く女性のこびである。

 と続きます。
 いかにも男尊女卑的な論理展開ですから、時代背景を考慮に入れて、まあ「妖怪の引き起こす怪異よりも、人間が手練手管を使って行う詐術の方がずっとたちがわるい」とでもとらえておきましょう。
 ところで、上記の一文は江戸中期までの教養書であった白居易の『白氏文集』からの引用だそうなのですが、そこで「こび」というのは「狐媚」にルビが振られているのがなんとも興味深くおもしろいところです。藍は青より出でてのひそみにならえば、「媚は狐尾より出でて狐尾より媚し」というところでしょうか。閑話休題。
 さて、以上のような妖異観をもって、馬琴は九尾の狐の考察に筆を進めていきます。
 考証を進めて答えを導きだすなんていうのは馬琴の筆法ではありません。氏は大上段にまず結論からくりだします。
 いわく、「九尾の狐は瑞獣である」。
 つまりは鳳凰や麒麟と同じような吉兆となる妖怪だといっているわけです。
 その証拠としまして、『呂氏春秋』より夏王朝の皇帝禹が九尾の狐を見て結婚相手を決めた話や、『白虎通』や王褒の『四子講徳論』などを挙げています。特におもしろく思ったのは、『潜確居類書』中の郭璞賛にあるという文章で、ここでは九尾の狐は文書をもって現れる妖怪とされ、幸福を文に含ませて、それをもって霊符を作ると書かれており、文章のための奇獣とされています。

 なんとなく、これらからうかがえるのは、馬琴の矛盾した心持ちのような気がします。
 俺は怪異なんてものは信じないよ、などとうそぶいて、さんざんに巷間でささやかれる怪談話をけなしておきながら、最終的には九尾の狐を忌まわしい妖怪から吉兆をもたらす幸福の使者のように作り変えようとしています。
 それはなんのためかといえば、おそらくは自分のためでしょう。九尾の狐が文章でもって吉兆を示したとしても、忌避される現在ではその幸福をいただくことは難しい。それを得ることのできるのは、古典によって真相を見抜いている自分である。そういいたいような気がしてなりません。
 さもなければ、瑞獣として称揚しても、結局のところは効なきことになるはずだからです。狐の媚が人間に勝らないのならば、その与える幸福に期待をこめることもできないはずだからです。けれども、そのあたりに馬琴はあまり自覚的ではないようです。
 滝沢馬琴が描かれた小説といえば山田風太郎の『八犬傳』がまず思い浮かぶのですが、そこで描かれる馬琴というのは大家然とした余裕ある人物ではなく、たえず周囲に批判の目を向け自分がみんなを啓蒙してやらなければいけないという理想に燃える、といえば聞こえがいいですが、意固地で偏屈なクソジジイ的な姿になっています。石川淳なども、馬琴を痛罵してやむところを知りません。
 たしかに、この『燕石雑志』も、紐解けば啓蒙的な教訓、道徳譚があちこちに顔をのぞかせ、むねやけを感じるのも事実です。
 けれども、そうした説諭も、実はなにより自分に、ともすれば妖異怪異の世界に流されそうになる自分を戒めるために書かれたものだと考えると、このいやみったらしいクソジジイの顔も、少しは別の面貌を現すような気がしてきます。
 なにしろ馬琴という人は犬江親兵衛という理想的人物の描写に周囲がうんざりするほどの情熱を注ぎこんだのと同様に、八犬士の登場までにもこれでもかとばかりに妖異怪異をつめこんだ『南総里見八犬伝』の作者であるのですから。
 偏屈な唯我独尊のクソジジイの顔よりは、そちらの方が寝つきもよくなるというものでしょう。
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