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長月の砂漠をさばさばと

 筆をとるといいますと、大仰で、金釘流の誉も高い私ですから、現れてくるのはみみずののたくったようなものなら御の字の本人ですら判読できない線の塊という体たらくになりますので、基本的にはここ二十年近くはキーボードをポチパチと弾くことになります。
 そうしてパチポチパチポチやったあげくにできあがったものを読み返してみますと、たいがい暗澹とせざるをえません。
 どうにも文章が重い。
 本人軽妙洒脱なユーモアを心がけているつもりなのに、出来上がってくるのは気負いばかりが目立つ、なんとも生硬なしろもので、その口当たりの悪さについつい文章ばかりでなく、自分の気分も重くなってしまいます。

 そんなわけで、昔から闊達奔放に文章を踊らせる人に強い憧憬を覚え、さらにそれには文字自体を遊ばせる人も含まれます。
 私のハンドルネームのもとになっている宮武外骨について初めて強い興味を覚えたのも、氏の独特な社説によるところが大きいです。
 SF同人誌のある種モニュメント的作品である『NULL』に掲載された夢枕獏の「カエルの死」には、多くのアマチュア作家が限られた紙幅に粋を凝らそうとしのぎを削る中をぴょんぴょんと跳びぬける軽やかさがありました。
 タイポグラフィというそうで、もともとは活版印刷の植字の体裁を整える技術を指したそうですが、現在では広く文字を使った表現も含みます。
 もっとも、美術史的な表現の変遷よりも、むしろそうした文字表現をさらにもう一度文学作品に持ち帰ったものに私は興味を覚えます。
 鬼面人を驚かすといったものが多いのも事実ですが、しかしなかには強い必然性をもって生み出された作品も確固として存在している。そういうものを読んでおりますと、目を通して字面が重力から解放されて浮きあがってくるような錯覚さえ覚えるのです。
 高低の表現こそが、文章の軽みの基本ではあるとは思うのですが、幼い日に読んだ星新一の「おーいでてこーい」で覚えたような、青空の向こうを文章の先に見せてくれるような文章を書くにはまだまだ自分の腕前は遠く、それゆえに、いつも巡回しておりますこうの史代さんの「平凡倶楽部」にて、こうも見事に地面から解き放たれた例を見せつけられると、文章を書くことを専一に考える私などは嫉妬を通り越して、ため息をつくしかありません。
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セピア色の染色体

 表の大通りを一本奥に入った、あまり日の射さぬ筋に、その店は看板をかかげている。
 セール用のワゴンが街路へと少々はみだしているのはご愛嬌だが、たたずまいは慎ましやかな、率直にいってしまえばくたびれた観が強い。
 外からひょいと中をのぞいてみれば、決まって客なんて一人もいやしない。奥のレジカウンターでは店主が、しかし、そんなことにも興味なさそうに愛想のない顔でぼんやりとあたりを睥睨している。
 店主からしてこのありさまだから、近所に住んでいても、この店がなにを扱っているのか知らない人も多そうだ。道行く人はみごとなくらいにまで、店には無関心で通り過ぎていくばかりだ。
 それでも物好きはいるもので、そんなだれからも見向きもされないような店に、引き込まれるように入ってしまう人間もある。
 玄関の硝子戸は時代がかっていてすべりがわるく、引き開けるのにも一苦労だ。そして、店内に入った途端、まず出迎えるのは店主のあいさつではなく、鼻腔をくすぐるすえた臭い。それがかび臭さだと覚るのに、さほど時間は必要ない……

 一律なスタッフ規範が徹底し、こぎれいな店舗作りをモットーとする大手のチェーンが増えているとはいえ、いまだに古本屋のイメージというのはこんなものだと思います。実際私がかつて愛し、いまでも足しげく通う多くの店がこのステレオタイプを踏襲しています。
 それにしても、どうして古本屋は、私を引きつけるのでしょう。
 ちょっとした外出で、見知らぬ町をとぼとぼ歩いているときに、ふと古本屋の外観を見ただけで、万難を排して立ち寄らずにはいかない気分になります。
 長年探していた本や、それともこれまで見たことも聞いたこともなかったような珍籍とめぐりあえるのではないか。そんな期待に胸ふくらませて、玄関をくぐらなくてはおさまらなくなります。
 それどころか、読んでいる本に古本屋の記述があると、それだけでワクワクと胸が高鳴るのを感じずにはいられません。
 古本屋の出てくる文章といって、私がまず思い出すのは、このブログでも何度か紹介したフランス文学者渡辺一夫の名エッセイ「エドゥワール・シャンピヨンのこと」です。この一編は、フランスの、さらに1930年代を扱った、隔世の感どころか現在の日本とは完全にといっていいくらいに状況を異とするものですが、文章の端々から溢れるほどにただよってくる愛情が、読んでいる私のまなじりを下げさせ、羨望のため息をつかせてやまず、思い返しては再読をさせてくれる魅力に満ち満ちています。
 そこで鮮やかに描かれているのは、アナトール・フランスをはじめとした当時のフランス文学界を代表する人々より150巻以上にもわたる私的な叢書を刊行してもらえるほどに思慕を受けると同時に、陋巷で貧しさにうちふるえる老詩人を思いやる、ユーモアと学識をかねそなえた、作家と二人三脚で歩むことのできる書店主人の姿です。
 私の勝手な思い込みかもしれませんが、作家と古本屋は、こうした幸福な結合があって歩んでいくものだというイメージがあります。
 ものを書くにあたり資料は必要ですが、必ずしも現在刊行されているものが、その要にあたるというわけにはいきません。むしろ、作家のこれまでになかったインスピレーションが作品化されるのですから、新本では間に合わない場合が多いように思えます。そんな時に役に立つのが古本屋で、さらにつきあいも深くなってきたら、
「こういう本は先生のお好みかと思いまして」
 などと、時機を見計らったかのように持ってきたりすらする関係を、どんな作家も結んでいるものだと思っています。
 ですので、時折、古本を好まない作家や、著作を古本屋に販売するのを差し止めるように働きかける作家の存在を耳にしますと、なんだか狐につままれたような感じになってしまうのです。
 おそらく、私の考え方が、時代錯誤のアナクロニズムに陥ってしまっているのでしょう。
 考えてみますと、時は移ろい、古本屋の意味合いも変わっていきます。絶版や品切れになった書籍を探す場から、普通の新刊書店でも手に入る本を少しでも安価で手に入れる場へと変化しているような感覚は、たしかに私も覚えないわけにはいきません。まして現在はインターネットの情報が、文字通り蜘蛛の巣のように張り巡らされ、調べられないことはない状況になっています。
 こんな幸福な時代相のなかで、セピア色に変色した古本を後生大事に追いかけまわし、悦に入る姿はまさに象牙の塔にたてこもるソフィストそのものというべきでしょう。
 古本屋の夢は本のなか、作品のなかにしまい、思いや視線はディスプレイに向けておく方がずっと健全であるとも思えます。
 しかし、その古本屋の夢、セピア色の思い出のつまった本、例えば先ほど紹介した渡辺一夫の一編が入った作品集が、現在増刷されずに古本屋でしかお目にかかれないというとき、はたしてこの幻はどこに見出せばよいのでしょうか。
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