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ベンヤミンの見たパリの小宇宙

 荒俣宏の本は図像が豊富で、ビブリオマニアの面目躍如たるものがあり、どれを紐解いても幼かったころに百科事典や図鑑を開いたときに覚えたわくわくを思い出させてくれます。
 光文社文庫に入っている『図像探偵 眼で解く推理博覧会』もそんな一冊で、数字を用いないAからWまでの章立てで、主に19世紀ヨーロッパの博物学的な書物をイラストをふんだんに利用して紹介したこの本は、常に枕頭において眠りに落ちるまでのわずかな時間に蠱惑的なまどろみを提供してくれます。
 けれども、いつも冒頭の「A 群集のロンドン」で少々引っかかる文章に出くわします。

 エドガー・ポオの傑作『群集の人』は、「みずからをして読ましめぬ書」というあの出だしからして、繰り返しわれわれを闇の啓蒙へと誘ってくれる。ベンヤミンは再読したくもないが、ポオなら何度でも読みたくなる理由が、おそらくそこにある。

「群集の人」はもとより、「リノア」やもちろん「大鴉」という詩の数々、そして「ユリイカ」に代表される評論や「マルジナリア」と題された断片集も含めて、エドガー・アラン・ポーの著作は、幻想という誰彼の時間に憑かれた者ならば常に念頭においておかなければならないものであると思います。
 けれども、ここで「ベンヤミン」という名前が出てくるのは、少々唐突な感を受けないでもありません。
 ベンヤミン。ヴァルター・ベンヤミンは1892年生まれのユダヤ系ドイツ人の思想家で、1940年ナチスによる迫害を避けるためにアメリカへと亡命しようとする最中命を絶った人物です。それでは、どうしてここにそのベンヤミンの名前が登場するかというと、未完の断章として残された「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」において、ボードレールとポーの関係を語るなかで、この「群集の人」を考察しているからだと思われます。
 なるほど、マルクスのボヘミアン観からはじまるこの評論は、政治的な共産主義的な側面がないとはいえず、そうした部分にとっつきにくさを覚えさせるところがないとはいえません。
 けれども、「再読したくもない」というほど、凝り固まったつまらない哲学書であるとは思えません。
 それどころか、「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」は文章における、パノラマ的な格好のパリ案内書であると思えるからです。特にパサージュと呼ばれる遊歩道の紹介によって、そのパリ観は一気に豊饒な色彩をたたえていきます。
 ガス灯に照らされ、不夜城となったパリの街並み、そこには絵や写真は添えられていませんが、それと同様なわくわくを胸に到来させます。
 そもそも、そうした都市観察眼を持っていなければ、「写真小史」においてウジェーヌ・アジェを紹介したりはしないでしょう。
 ウジェーヌ・アジェ。この写真家のとったパリの街並みは、早朝に撮影され人通りがまったく排されており、荒俣宏の紹介するルドルフ・アッカーマンの『ロンドンの小宇宙』のようなきらびやかさはどこにもありませんが、それでも都市における幻想をその中に凝縮しており、ポーの末裔としての幻想をおそろしいまでにたたえています。
 少なくとも私はポーを通して『ロンドンの小宇宙』も愛しますし、ウジェーヌ・アジェを通じてベンヤミンに浸ることも好みます。
 概して、哲学書、思想書というのは、全体を通してその語るところ、意図をくみ取られることが重要視されますが、はたしてそんなに堅苦しいものでしょうか。ふとんに入り、お気に入りの一節をつまみ読みして、夢の彩りに一色を加える。そんな摂取方法もあるのではないでしょうか。
アジェの写したパリの1枚
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首切りの効能

 阿部謹也の『刑吏の社会史』(中公新書)は、死刑執行人という賤民身分におかれた職業を通して、副題にある通り「中世ヨーロッパの庶民生活」を描いた、私のような専門的な知識のない人間でも興味深く読み進めることのできる好著です。
 刑吏がどうして蔑視されるにいたったのか、中世ドイツにおける処刑の方法を一つずつ考察し、必ずしも直接死に結びつくものではなかった偶然刑が絶対的な死を与える刑に変化していく過程を、都市化によって説明するあたりはとても説得力があり、読んでいまして非常に参考になります。
 そうして読み進めるうちにおやと思ったのは、「医師としての刑吏」という節で、人から触れられるっことすらも厭われる存在であったはずの死刑執行人である刑吏が、実は医師としての役割も果たしていたというのです。
 そこで思い出したのが、江戸時代から明治初期にいたるまで死刑執行人を務めた「首切り浅右衛門」こと山田浅右衛門でした。
 かの山田家も斬首を行いながら、そこから得た死体を使って薬を作って、処方していたといいます。
『刑吏の社会史』でも中世ドイツの刑吏が、処刑した人間の体を使ってまじないの道具を作ったり、薬に用いたりしたことを引いています。
 疑問に思ったのは、洋の東西でこうした死刑執行人の果たした役割の共通性もありますが、ぞれ以上に、どうして罪人の体の一部が薬などとして用いられたのかという点でした。
 罪を犯した人間というのは一種ケガレが身にしみてしまっていて、それに触れることはまた別のケガレを生むことにつながるのではないかと考えたのです。
 しかし、その疑問への解答も本書が用意してくれていました。近代以前の古代・中世においては、処刑というのは見せしめのために犯人を罰するものではありませんでした。そうではなく、町や村という共同体の存続を危うくする犯罪によってゆるめられた絆を改めて強くするという意味合いに傾いていたということです。
 ですので刑は多くの場合通過儀式的にとらえられており、罪人の生死は必ずしも重要ではなかったのです。
 そうして儀礼を通してケガレが払われ、犯罪が行われる前の日常に戻るというきっかけこそが求められていたわけです。
 そこでは罪人の体も同じです。共同体が以前と同じ平静さを取り戻すためには、罪人の体もいつまでもケガレにまみれているわけにはいかなかった。たとえ死後であったとしても、どこかのタイミングでケガレを払拭してしまわなければならなかった。
 本書では「処刑された盗人の指(特に無実の者の)を切りとって、紐でしばってビール樽の中に吊るしておくとビールが美味しくなる」という刑吏の行うまじないの一つが例として挙げられていますが、これなどはそもそもの誕生は逆だったのではないでしょうか。
 つまり「罪人の指をビールに漬け込んでおくことで、その味の変化をはかり、罪が消えたかどうかを判別していた」のではないでしょうか。
 そして、これはあくまで通過儀式ですから、必ず味がよくならないと困ったことになります。
 それで、そのうちに「罪人の指を漬けたビールはうまい」と積極的に解釈が転倒されるようになり、「罪人の指を漬けるとビールはうまくなる」と形を変えていったのではないでしょうか。
 つまり、死刑執行人が医者を同時に兼ねていたのは、そうしたケガレを払い普通の肉体にリセットして戻させる象徴的な存在であったからなのでしょう。

スベテアツタコトカ

 正直、子供の頃は、八月の新聞を読むのが恐かった。
 紙面をめくれば、どこかにむごたらしい写真や絵が大きく掲載されており、見渡す限りの焼け跡や真っ黒に血のにじんだおそらくは死体の積み重なる様、その凄惨さは、少年をして目を伏せさせるにあまりあるものだった。
 臆病で泣き虫だったということもある。
 小学校に入りたての頃には、祖父に買ってもらった子供向けのミステリ仕立ての犯人あてクイズ本を読んで、その冒頭に描かれた女占い師の死体があまりに恐ろしく、長い時間声をあげて泣いた。おばけ屋敷に入って、大声で泣いて一歩も歩けなくなって、とうとう従業員通路から外に出してもらったなんて、なんとも興を解さない間の抜けた子供だと今から顧みるといまいましく思う経験もある。
 そんな子供だったから、とにかく血や、人がいるべき場所にいないという光景がとても恐ろしかった。
 それでも年月が経てば、少しは体裁をかまうようになり、身内からこみあげる恐怖よりは人から見られる視線の方に神経がいくようにもなって、ようやくそうした恐ろしいものにも面と向かえるようになっていった。
 もっとも、外面をとりつくろっているだけだから、性根の臆病で泣き虫なところは変わりやしない。他の人が普通に目を通しているところを、同じように見れるようになるまで倍も時間がかかって、やっとという有様だった。
 だから、ずっと八月の新聞は恐ろしいもの、触れてはいけないものという忌避感の方が強かった。
 けれども、ある時ふと気がついた。八月の新聞が、なにも恐い面ばかりでないと。よく見れば、高校野球の記事は書かれているし、四年に一度はオリンピックだって掲載される。海ではしゃぐ男女の姿は扇情的とまではいかずとも、十分過ぎるほどに華やかだし、空に開く大輪の花火の光景は夜の闇も恐怖ばかりではないと教えてくれた。
 なるほど、私は、夏の凄惨な記憶に遮られていて、彩りの鮮やかな季節の情景から目をふさいでしまっていたのかもしれない。
 祖父の買ってくれたあのクイズ本も、恐い死体が描かれていたのはたった一ページだけで、あとは案外のん気でユーモラスな探偵と怪人の知恵比べで占められていた。
 でも、別の疑問が頭をよぎることもある。
「ほんとうにそうか?」
 幼い日のある一部の記憶が特に鮮明に残り、他が稀薄になることはままるとは聞く。
 けれども、ほんとうにそれだけの話だろうか。
 子供心に恐れたあの新聞は、もっと紙面を割いて、数十年前の凄惨な記憶を綴っていたのではなかったか。
 平成二十一年八月六日。某新聞が扱った六十四年前の同日についての記事は紙面にしてわずか二枚。

「スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ
 パット剥ギトツテシマツタ アトノセカイ」

 今年も咲く夏の花の光景は、原民喜の描いたものとは既に色も形も変わってしまっている。

さんだらぼっちの小豆洗いを呼び寄せること

 昭和8年に刊行された内田百間の第一随筆集『百鬼園随筆』は少々特殊な色合いを持っています。
 それは一つとして、これがアマチュアとしての百間による最後の文集だという点が理由にあげられるでしょう。
 この単行本の出た翌年の昭和9年にいわゆる「法政大学騒動」が起こり、百間ことドイツ語教授内田栄造は他の大部分の教師とともに辞職に追い込まれることになります。
 昭和9年当時45歳、師である夏目漱石が49歳で亡くなっていることを考えれば、かなり遅咲きというほかないこの年を境として内田百間は職業作家として文名を高からしめていくことになります。
 つまり、重版に次ぐ重版を数えた『百鬼園随筆』は、まだ筆だけで食べていくという決意が固まっていたわけでもない時期に書かれた作品を集めた単行本となっているわけです。
 ですので、『百鬼園随筆』は後年に刊行される作品集とは異なる部分が多々目につきます。そのうちの一つは題材にサービス精神が旺盛だということがあげられるでしょう。
 専業作家となった後の百間は、文章道の練磨に怠りなく、むしろそちらに血道をあげ、実際「テーマや内容で読ませる作家など二流三流」と憎まれ口すらたたくことになります。
 ところが、まだ他に収入の道のあった頃には、文章は余技と思える余裕もあったらしく、読者の興味をそそりそうな題材を選んで作品としているらしいものが多く見受けられます。
「風の神」という1編も後年ではあまり見受けられなくなる作風からなっています。

「風の神」は郷里岡山を舞台とした高校時代の思い出を描いた掌編で、地域に風邪が流行しているからと、祖母が厄除けのまじないを行うところからはじまります。
 物置から持ってきた桟俵の上に沢庵をのっけて、一口かじり、その歯形の上に3度「はあ、はあ、はあ」と息を吹きかけると風邪の神が乗り移るので、あとはそのさんだらぼっちを家の裏の川に流しにいけばよいということになります。
 これは一人で行わなければならなかったらしく、百間青年は田の間をたどってまっくらな夜道をとぼとぼと歩き、ようやく川にたどりつきます。
 そうしてさんだらぼっちを流すのですが、風の都合でか、一向に目の前から離れていこうとしません。いくら待っても埒が明かないので、川面をたたいてその波紋で送り出そうと、水に手をつけてみると冷たい音があたりに響きます。
 その音を耳にすると、なんだか急に総身が冷たくなったような気がして、夜中に川端に一人でいるのが恐ろしく思えてきたのでした。
 もう帰ろうと思い、立ち上がると、途端、近くの川の下で水の鳴る音がします。それはかすかで、耳をすますうちには消えてしまったけれども、帰ろうとするとまた続きます。小さな棒切れで水をかきまわしているような、お米をとぐような音だったと書いています。
 おそるおそる橋の下をのぞいてみても、月や星の明かりが白く反射するばかりで、なんの姿もなく、ようやくさんだらぼっちも川下に流れていったので家に帰ることにしました。
 帰宅後、祖母に水音の話をすると顔色を変えて、風邪の神を流したらすぐに後を振り返らずに帰ってこないといけない、あの橋の下には小豆洗いの狸が出るという話もあるし、それに後をつけられたらどうするつもりだと、叱責されました。
 そうして、とにかくその日はもう寝ろといわれ、床に就くも間もなく、百間青年は祖母にたたき起こされます。
 風が強くなり、格子戸ががたがたと音をたてて揺れている。祖母は今しがた足音もしないのにだれか表に来たようだと思ったら、いきなり格子戸がどんどんと叩かれて「栄さん、栄さん」と百間の名を呼んだ、聞いたこともない声だからあれは小豆洗いの狸に違いないといったとのことです。

 話は以上のようなもので、一読わかるように、前半と後半の二部構成になっております。
 前半の「さんだらぼっち」は、これは本文でもなんの説明もなくいきなり挿入される単語で、直前に出る桟俵と同じもので米俵の前後につける蓋のことです。「さんだらぼうし」ともいうそうで、明治24年に完成を見た日本で最初の近代国語辞典『言海』にも、

「さんだら-ぼふし (名) サンダハラに同じ。」
「さん-だはら (名)[桟俵] 米俵の両端の蓋に用いる藁作りの丸くひらたいもの。サンダラボフシ」

 と掲載されているので、当時では普通に通じる単語であったと考えられます。
「さんだらぼっちってなんじゃいな? だいだらぼっちの親戚か?」などと頓珍漢なことを考えてしまった私では、こんなところでも昭和初期と隔世の感を覚えられるのですからずいぶんと安上がりです。
 そのさんだらぼっちを川に流して風邪除けをするというのは、全国各地で見られる風習で、払われる厄も風邪に限らず様々であるようです。
 ただ水に流すというのは目に見える行動ですので、そのために風邪にも形を与えねばならず、たくあんに歯形を刻むことでそれを代理表象させているのがおもしろく感じられます。大根と風邪になんらかの関係があるのかもしれません。
 こうしてさんだらぼっちが主体になっているのが話の前半部分で、後半はそれが「小豆洗いの狸」に変わっていきます。
 小豆洗いというと、つい現代の私達は水木しげるのあの侏儒の姿を思い浮かべてしまいますが、むしろそれ以前は、なにかの化けた姿と考えられるのが通例だったようです。
 柴田宵曲編による『奇談異聞辞典』でも「耳袋」と「裏見寒話」を引いて、それぞれひきがえるとむじなの化けたものだと書いた例を挙げています。
 しかし、そうしたひきがえるやたぬきの化けたものであったとしても、多くの小豆洗いの伝承は、人を遠ざけることを主眼として語られていることが多く、おそらく文目も分かたぬ夜に水辺に立ち寄る危険性を伝えた意味合いが強かったのだろうと思います。
 例えば、ココで「アズキアライ」を検索してみても、人口に膾炙した「小豆とごうか、人とって食おうか」という歌が出るのは、近年、昭和60年以降の収集に集中しているのがわかります。
 つまり、小豆洗いとは必ずしも人に積極的にかかわり合いを持とうとする存在ではなかったというわけですが、百間の話ではあろうことか水辺を離れて家にまで押し寄せてきます。
 そこで少し引っかかるのが、前半部と後半部をつなぐ役割をなしているのが、水音という怪異とそれを聞いてぞっと体が冷たくなったということです。音は怪異の直接描写としまして、寒気が走るというのは、これは風邪の一兆候です。そして、狸から連想すると、「風狸」なんて妖怪がいたことも思い出されます。この百間の作品では風と風邪が分かたれていないことにも注目すべきかもしれません。
 ようするに、これは風邪を追い払うまじないをするために川までやってきてみたが、季節はずれの行為にかえって体調を悪くしたというのを、怪異を交えて描いたものかもしれません。帰宅するなり早く床につくようにいわれるのも、考えてみると病気の早期治療にも思えます。
 もっとも、そのあたりはさすが百間で、自らの体調の変化については一切触れず、別のオチをきちんと用意してあるあたり、一代の名文家の技といえるでしょう。

平成二十一年のキャッチボール(暴投気味)

 毎年8月になると、1冊の本を読むようにしています。
 本のタイトルは『戦中派不戦日記』。作者は山田風太郎。
 これは、大正11(1922)年生まれの作者が、23歳当時、もちろん作家になる前の昭和20(1945)年、つまり太平洋戦争終戦の年の1年間に記した日記を単行本として刊行したものです。
 後年『甲賀忍法帖』『柳生忍法帖』『魔界転生』などで知られることになる風太郎は、昭和20年という年、医学生として東京で暮らしておりました。
 日々、爆弾や焼夷弾が落とされ、町の様相が廃墟に変わっていくのを、同時代の人々とはかなり異なった視点で眺めています。

 西にドイツ潰えんとして、東に敵艦海を覆い、敵機空を覆わんとす。しかも米の富強、なお余りありて、英、ソ、支に莫大の武器を注入す。一を以て十を撃つも及ばず、百を撃たんか、一を以て百を撃つものは科学と精神力なり。科学は如何、日々のB29の来襲はほとんど傍若無人にあらずや。ああ、日本をこの危機に陥らしめたもの、みそぎや、神風や、かかる荒唐無稽なるものを以てすべてに勝れりとなす固陋卑怯の政治家、職業的精神主義者、神がかり的狂信者どもなり。性能劣れる兵器を以て卓抜する千倍の敵を撃たんとす。戦術も手をこまぬき、精神力も圧倒せられざるを得んや。この機動部隊を粉砕し、硫黄島の敵を駆逐し、比島奪回に成功し、しかも長駆広茫の太平洋を越えて米本土を制圧せんとす。あに夢といわず何ぞや。ああ、必勝の信念を堅持することの難きかな。

昭和20年2月21日


 これは厭戦でも敗北主義でもありません。山田青年はここまで冷徹に戦中の状況を見据えながらも、まだ必勝を信じようと努めているのです。
 戦況や入ってくる情報は、非常に困難、というよりは絶望的でありながらも、勝たなければならないという信念のもとで、なんとか事態を好転させようと躍起になっているのです。
 単なる23歳の若者が一人知恵を絞って煩悶したところで、状況はなにも変わらない。そんな理性的な言葉は、彼らを些かも動かすところはないでしょう。日々、当然のように降りそそぐ爆弾や焼夷弾のもとで、日常を続けなければならなかった人々は、とにかく躍起にならなければ自分を保てなかったのです。
 60年以上前の戦争ではそういった犠牲もあった。
 それを顧みるためにも、私は毎年この時期に『戦中派不戦日記』を読み返すようにしています。
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