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奇々快々

◎『奇人 小川定明の生涯』佐藤清彦(朝日文庫)

「明治三奇人」という言葉は聞いておりましたが、その出自はよく存じ上げませんでした。
 宮武外骨と南方熊楠がそのうち2人として数えられることも知っておりましたが、もう一人となると「ハテナ?」と首を傾げる様で、ジャーナリスト、学者ときているんだから法律家でももってきているんだろうと解釈しまして、山崎今朝弥を勝手にあてがって納得したりしておりました。
 ところが、実際は本書の主役となる小川定明なる人物がその3番目に加わります。
 もっとも、小川定明は安政2年(1855年)生まれらしいので、慶応3年(1867年)生まれの熊楠と外骨と比べれば、末席どころか大先輩にあたります。
 大阪朝日などの新聞記者として日清戦争、米西戦争、北清事変、日露戦争などに従軍、30年近くに及んだ記者人生をあっさり捨てて千葉県成東町の温泉旅館の下男に転身、そこで嘗ての勇名を感づかれると再び職を変えて北海道の孤児院の職員となって晩年を知遇にも知らさずに過ごす。
 と、その活躍はめまぐるしく変化します。
 そこに共通する信条は、他人をいかに楽しませることができるかという一事にかかっている気がします。
 今、手近の漢和辞典で「奇」という言葉を調べてみれば、「めずらしい」「あやしい」とともに「すぐれた」という説明もそえられています。
 新聞記者として世間を湧かせ、温泉旅館の下男として人々を給仕し、孤児院の職員となって親のない子供達のために奮闘する。その姿からは常に、人を楽しませようとする強い意思が見えてきます。
 南方熊楠の紙面いっぱいに書き込まれた書簡やノート、宮武外骨の破天荒な出版戦法に見られるように、小川定明の中にも、まず他人を楽しませ、そして他人の喜ぶ姿を自らの楽しみとするという天性のエンターテイナーの血が熱くたぎっていたものと思われます
 もって「奇人」と称するのは、これは思えば実に適確な表現といえるでしょう。
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豊饒の棗

 一人の人物を起点として連想の環が次々とつながっていく様というのは、これはたいへんに面白く、何気なく読んでいた一冊の本から、思いもかけない人物名を見出したりすると、旧知にでも出会ったかのような喜びを覚えます。
 日本の作家において、この連想を広げやすいのは、なんといいましても夏目漱石と森鴎外でしょうが、鴎外は残念ながら現在では名こそ高くありますが、広く読まれている作家とはいいがたく、かつ文体もまた一見現在の流行からかけ離れているように思えますので、ひとまずここではおきます。
 もっとも、漱石といいましても、私の場合、その連想の端緒は山田風太郎となります。
 一般に忍法帖の作家として知られるこの奇想の作家は、漱石を信奉していると思われる節があり、特に後年の明治ものの中では頻繁に漱石の姿を描き出しています。それは漱石本人のこともありますし、「牢屋の坊っちゃん」のように漱石の文体をまねて一編を作り上げていることもあります。
 風太郎の小説作法は正史やそこに登場する人物にスポットを当てるというよりも、その陰となる部分、ちょうど記録の欠けた部分に手をかけて、それを大きく引き伸ばすというもので、少年時代の夏目漱石と樋口一葉が邂逅するだとかの、あったかもしれない人物相関を作り上げて、さもそれが事実であるかのような描き方をするところにあります。
 この方法は広く伝播して、現在でも多くの作家によって使用されています。
 その最も顕著な例は、関川夏央原作、谷口ジロー画による「『坊っちゃん』の時代」五部作でしょう。
 特にシリーズ名にもなっている第一巻はところどころに風太郎節が顔を出します。新橋駅のコンコースで漱石と安重根と東条英機が邂逅するなんてシーンはその最たるものといえます。
 関川夏央には『戦中派天才老人・山田風太郎』という風太郎のインタビューを構成したエッセイ作品一冊がありますので、この創作法はかなり自覚的なものだと思われます。
 そして、この関川・谷口に影響を受けたと思しい古山寛原作、ほんまりう画の『漱石事件簿』も、かなり風太郎色の強い作品となっています。そもそも半分以上を占める「黄色い探偵」のタイトルからしまして、山田風太郎のとある作品まんまですし、夏目漱石と南方熊楠という同い年の二人がイギリス留学の行き帰りの途上であるインド洋ですれ違うという表現も、風太郎の『明治波濤歌』の一編「風の中の蝶」のまんまです。(もっともこれは澁澤龍彦の「悦ばしき知恵」でも書かれているので、どちらを参考にしているのかはわかりませんが)
 まんまといえば、その南方熊楠の生涯を書こうとして途絶した山村基毅原作、内田春菊画の『クマグス』(後に『クマグスのミナカテルラ』として新潮文庫入り)は、「風の中の蝶」と筋立てが非常に似通っています。
 閑話休題。
 このように一人の人物から多くの連想が広がっていくのは、非常に大きな楽しみと喜びを与えてくれ、創作を志す人間としては、そこに新しい相関図を組み入れたいと技量もわきまえずに、ついつい大それたことを考えてしまいます。
 で、今年夏コミで出そうと考えているのは、夏目漱石の門弟のほぼ最末席に位置する内田百間の空白期間である昭和二十一年から二十五年の物語を風太郎手法で挑んだものであると申しましたら、しまった宣伝だったかと思われてしまうかもしれませんが、実はその通りです。

モアの末裔

 夏コミで出す本の資料としまして、永井荷風の『墨東綺譚』を読み返しておりました。

 東郊玉の井を舞台とし初夏から初秋にかけての男女の出会いと別離を、作中作をまじえて描き出した文章は、風雅の息吹強く、荷風の作品のなかでも特に波風の立たないなだらかな物語であるにもかかわらず、彩色鮮やかで、ページをくる手もついつい止まらなくなってしまいました。
 特に、私の所持する旧角川文庫版(昭和26年9月15日初版発行)は、木村壮八の挿絵が添えられ、さらに末文の解説は夷斎先生石川淳が担当しているという豪華本で、この当時の枇杷色の文庫表紙とそこにえんじ色で描かれた菖蒲、紫陽花、椿といった意匠も雰囲気をかもし出して、荷風生前の出版ということもあり奥付に張られた検印紙もただただうれしくなってきます。

 以前読んだ際には気がつかなかったのですが、文中、ヒロインともいうべきお雪を説明する個所で「此花」という単語が出てきます。
 これは私のハンドルネームの元になっている宮武外骨編集の、明治43年より刊行の開始された本邦初の浮世絵研究雑誌『此花』のことです。
 荷風では前にも『江戸芸術論』所収の「浮世絵の鑑賞」でこの宮武外骨の名前を見まして、「おや」と思った記憶があり、これはうれしい発見でした。
 しかし、考えてみますと、反骨と諧謔のジャーナリストと呼ばれた外骨と荷風には、どこか相通じるところがあるようにも思えます。
 それは二人が互いにユートピストであるという点にかかってくるのでしょう。
 荷風はその文体や主題において、江戸情緒を同時代に再現前させるべく努めた作家であり、外骨は政治や経済の偽善欺瞞に対して徹底的にノンを突きつけ、時に露悪的にそれらを描き出すことで間接的にユートピアを夢見ました。
 荷風にとってのユートピア小説の最も顕著なものである『墨東綺譚』に外骨の名前が出てくるのも無理からぬことなのかもしれません。

 もっとも、ここでいうユートピアとは単純に楽園という意味ではなく、原義通りのUtopia、つまりは「どこにもない場所」を示し、荷風も外骨もそれに自覚的です。
 特に荷風においては失われた江戸の町が、実際には東京のどこにも見出せないことを知り尽くしています。だからこそ、下町を理想的に描きながらも実際には山の手に住み、日記「断腸亭日乗」では下町の不衛生さ住人の気質の合わなさを徹底的に批判したりします。
 そうした「どこにもない場所」としてのユートピアを描いた大正から昭和にかけての小説家に、もう一人「美しき町」の佐藤春夫がいますが、『墨東綺譚』中にはこの佐藤慵斎先生の名前もまた引かれています。

 荷風の二重的な態度はつとに指摘され、批判も加えられてきましたが、けれども、最初のユートピストである『ユートピア』の著者トマス・モアが、その思想を守るために断頭台の露に散ったことを思う時、それを強いるのはあまりにも酷であるという思いを強くしないわけにはいきません。
 一言で命を落としかねなかった戦前においてはそうですし、また、私が所持する『墨東綺譚』が古本屋さんのワゴンセールでひょっこりと顔を出すような今の世でもそうです。

一粒の砂利

 たきたてのほかほかと湯気がたつごはん。
 一粒一粒が立って、つやつやと白く輝きながら、端にいけば透けて向こうが見えるよう。
 銀シャリという言葉になるほどとうなずきたくなる光景で、ごはんを食べる国に生まれてよかったとつくづく思える瞬間でもあります。
「いっただきまーす」
 食前の挨拶も自然躍るようで、うきうきと心の弾む様子を隠しきれません。

  ジャリッ

 そんな至福を奪い去るには大した労は必要ではありません。
 たった一粒の砂がまぎれているだけでいいのですから。
 量にしたらたった1%にも満たない、その砂の歯ざわりのおかげで、箸使いからは先ほどまでの勢いは失せ、どこか探るような慎重さが生じてきます。

 こんな砂利はどこにでも潜んでおります。
 先日も、柴田宵曲編の『奇談異聞辞典』をパラパラと流し読みしておりますと、「義眼と蜂」という話が引っかかりました。

 ある家の奥方が眼の病を患い視力をうしなってしまった。
 医師にかかっていろいろと治療をしたものの験なく、ほとほと困り果てたところで、
「それでは義眼を入れてみてはいかが」
 と提案された。
 まぶたの内に、仏工の使う玉眼というものを入れるもので、かたわらに人がきても本物の目玉と見分けがつかないほどだという。
 その奥方は喜んでそれを処方してもらい、人知れず生活を送っていた。
 ところが、ある日、自宅で宴会があり、客が集座するなか、一匹の蜂が迷いこんできた。
 客はみな驚きあわてて騒ぐなか、奥方の目の前に蜂が飛んできた。しかし、奥方の眼は微動だにするところがなかった。
 そうして奥方の義眼が衆目の知るところとなった。
 笑うべき話である。

 何故「笑うべき」なのでしょう。
 片目を失い、それでも健気に人目の前に出ようとする意気を笑うというのには違和感しか覚えません。
『奇談異聞辞典』は江戸期の随筆から、その名の通り怪異を収集して載したもので、この話も文政期になった『甲子夜話』からとられたものだと記されてあります。
 けれども、編者である柴田宵曲は明治後期の生まれで『奇談異聞辞典』自体の刊行は、太平洋戦争後の昭和35年になったものです。
 そのような時代に、こんな「笑い話」をとった宵曲の思いは如何様なものであったのでしょうか。
 107種類もの随筆集から怪異ばかりを集めたこの本は実に微に入り細をうがち、丁寧な編集をされているだけに、こうした砂利が歯にさわり、ついつい気になってしまいます。

十年一昔とはいいますが

 新装版の『あずまんが大王』の第1巻が出ていたので買ってきました。
 連載からもう10年だそうです。

 10年かあ……、職場のみんなと『あずまんが大王』の全セリフをほぼ空で覚えて、日常の会話に盛り込ませていたのも、もう7、8年前になるんだなあ。

 そういう私のどうでもいい記憶は果てしなくどうでもよく、ひさしぶりに読み返してみまして思うことは、この作品がいわゆる「萌え四コマ」の火付け役といわれつつ、その後の四コマとは(もちろんそれ以前の四コマとも)構成の点からも異なる、一つの鬼子だったということです。
 全体を読んでみてわかることなのですが、作品内では作者の抑制が実に強く働いています。それは登場人物の少なさからもいえるでしょう。
 通常、四コママンガというのは、連載が長期に渡ると登場キャラが際限なく増えていきます。
 このあたり、毎日新聞で「まっぴら君」という四コマを長期連載していた加藤芳郎が「まっぴら君というキャラが登場するのは実は初期の間だけ」という話をしていたことともかかわるのですが、どうしてもギャグマンガ(四コママンガはその形式上ギャグマンガであることが前提条件となるジャンルです)という性質上、限定されたキャラクターでは笑いを長期的に提供するのが難しいらしいのです。
 ところが、『あずまんが大王』はその増加が極端に制限されています。全巻を通じてみても主要キャラと呼べるのは両手の指で足りるほどでしょう。
 その分、かなり意図的にそれぞれのキャラクターの特徴をディフォルメ化して、その部分を前面に押し出す形式をとっています。
 それまでの四コママンガというのは、むしろ各キャラクターの特に性格部分などを曖昧にして、話作りに幅を持たせるようにしていたのが常でした。
 例えば、『あずまんが大王』以前の、社会人の読む四コママンガというジャンルから、異なる読者層を開拓することに成功した作品群、田中圭一の『ドクター秩父山』であったり新井理恵の『ペケ』であったり駒井悠の『そんなヤツァいねえ!!』であったり水田恐竜の『放課後キッチン』であったりしてもそれは変わりません。
 これらは明確なキャラ分けをして、四コママンガ内にストーリー的な要素を持ち込んだ作品ですが、実際には内部の四コマ作品一本一本を取り出してみると、作品内の他のキャラクターと交換可能となっているものが多いのです。
 しかし、『あずまんが大王』の場合は、この交換のきかないものが多くなっています。
 一時、『あずまんが大王』のキャラクターだけを他の作品のキャラクターと入れ替えるというパロディ作品が多数作られましたが、これはキャラクター関係がきちんと構成されている作品だから可能なのであり、その部分が曖昧では、成立しない方式といえるでしょう。
 こうしたキャラクターの造形は、作者であるあずまきよひこが連載のかなり早い段階で方針を定めたからこそ出来えたものであり、また連載中でもそれを変更することなく進めたからこそ完成させえたものであると思います。
 時代の鬼子でありながらムーブメントの祖となりえたのは、一つにそういう理由もあったのでしょう。

夏への扉

 夏コミ当選いたしました。
 4……5回ぶりでしょうか。

 8月16日(日)
 東5ホール ピ-51a
 「有滑稽」
 ジャンル:創作(小説)

にいます。

 刊行予定は、敗戦直後の昭和20年秋の東京を舞台にした「二畳半の地雷火」と、その続編「飯田橋の決闘」をとりあえず。
 ほかにも出せたらいいなー

 文章本は数が命!

葡萄あまいかすっぱいか

 大正昭和の名弁士、漫談家、ラジオ俳優である徳川夢声の『戦争日記』昭和二十年(1945年)部を読んでおりますと、ふとある個所で目が留まりました。
 四月十三日金曜日のことです。五十一回目の誕生日にあたるこの日、夢声は旗ヶ丘立正学園におもむきます。学校工場として初めて軍需大臣から表彰された祝賀会をするにあたり、余興として呼ばれたのです。

 映画渡来話ヲシテ、別室ニ案内サレル。会社ノ重役連祝酒ニ大酔シテイル。監督官モ酔ッ払ッテイル。校長モ酔ッテイル。大変ナ騒ギダ。甘イブドー酒デ酔ッタノダカラ、大分荒レテイル。トコロテンヲ肴ニ、私モガブガブト飲ム。無理ニ飲マサレタノデアル。校長ハ日蓮宗大学ノ学長デモアルソウダガ、コノ坊サンハ中々面白イ。

 明治後半に日本に渡来した映画は、またたく間に娯楽として広まり、教育・啓蒙の手段としても用いられていくようになるのですが、その黎明期を夢声がどのようにとらえていたのか、非常に興味深いものがあります。
 ありますが、私が特に注目したのは「甘イブドー酒」という部分です。
 戦中、日本では多くの品が配給制となり、国民は非常に苦しい立場に追い込まれました。もちろんお酒もその一品目で、世の呑んべえ氏は日に一本の晩酌を確保するのにも大いに苦労することとなりました。
 その配給で葡萄酒が頻繁に出されていたらしいことは、他の作家諸氏の日記からも推察されます。
 なにしろ、敗戦の年のこと、物資難は逼迫し、その日食うものにも困るありさまの日々を送る状態ですので、まともなお酒が出るわけもありません。夢声の飲んだ葡萄酒もまともに醸成されていなかったのでしょう。そんなお酒を飲んだからこそ、「大分荒レテイル」ということになるわけです。
 この太平洋戦争中の葡萄酒については、昔論文に組み込んだことがあります。それがひさしぶりに目に入ってきてつい懐かしくなってしまいました。その論文はあんまり人目に触れるものじゃないので、かんたんに要約をば。
 まともに作られなかった葡萄酒について、作家の永井荷風も「断腸亭日乗」に書いております。昭和二十年三月七日の部に、

  隣組の媼葡萄酒の配給ありしとて一瓶を持ち来れり金二円五十銭味ひて見るに葡萄の実をしぼりたるのみ酸味甚だしく殆ど口にしがたし。其製法を知らずして猥に酒を造らむとするものなり。これ敵国の事情を審にせずして戦を開くの愚なるに似たり。笑ふべく憫むべくまた恐るべきなり。

 まさかお酒の醸成一つで国家的感覚まで云々されるとは国の首脳部も思っていなかったでしょうから、酒飲みの怨念こそ笑うべく憐れむべくまた恐るべきと申すべきでしょう。
 酒飲み作家といいますと、やはり内田百間先生を忘れることができませんが、その先生の戦中日記『東京焼盡』にもやはり葡萄酒は頻繁に顔を出します。
 最初に登場するのは、同じく昭和二十年二月二十三日で、

 中野が二十日の火曜日に帝国劇場の国民酒場から汲んで来てくれた葡萄酒が一合あつたので、行くとすぐに部屋で味利きをして見たらうまかつたから、その場でみんな飲んでしまつた。この頃の葡萄酒は酒石酸抜きなる由。長く置くと腐ると云ふ話也。

 国民酒場というのは配給のお酒では我慢できない人のために政府が設けたお酒の臨時配給所で、ここで抽選を行って当選すると、一合ほどのお酒がもらえたそうです。
 この後、百間はこの酒石酸抜きの葡萄酒を「生葡萄酒」と呼んでいくのですが、意外と多くの人々に不評なこのお酒に対して好意的な感想を述べていきます。同年五月三日の記述、

 配給にて大黒葡萄酒一本あり。甘味にて甘い所は珍しけれども、葡萄酒の味としては寧ろ酒石酸が抜いてあつても生葡萄酒の方勝れり。

 百間が葡萄酒の味を知らないとか、味覚音痴であるというよりも、ここに百間の過去というものへのスタンスを見る気がします。
 もとより、過去よりの伝統に耽溺することを自らの信条としたと「花火」で述べる荷風にとっては、粗雑な作り方を行う葡萄酒に我慢ができようはずがありませんでした。
 百間は「百鬼園随筆」などという作品を上梓しながら、「随筆が本来どうあるべきかも知らないし、単に音の響きがいいからタイトルに採用しただけ」と述べてしまいます。その百間からすればアルコールというだけで「無きに勝ること万々」ということになるのでしょう。
 どちらがよいわるいというのではなく、同じ随筆という手法をとりながら、まるで接点のなかった二人の視点の違いが、この葡萄酒という対象一つでも見えてくる気がします。

いたずら者の伝説

◎『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』阿部謹也訳(岩波文庫)

 オイレンシュピーゲルという名前は、いまやライトノベルの方でずいぶんと高くなっておりますが、こちらはその元ネタである、16世紀初頭にドイツで出版された民衆本の方です。
 稀代のいたずら者であるティル・オイレンシュピーゲルが、放浪者、道化師、はたまた職人となって、遍歴先の各地で大騒動を起こす様を、全95のエピソード(96話までありますが、第42話が原典からも欠落しています)にて描いたもので、ヨーロッパの方では滑稽譚として広く読まれたり、口々に語られたりして、現在まで形を変えながらも伝えられているそうです。
 ただ、その内容はタイトルの「愉快ないたずら」というほど軽いものではありません。
 たとえるなら、ダチョウ倶楽部のつもりでテレビを見ていたら、電撃ネットワークが出てきたくらいのギャップはあるかと思います。
 特に多いのが、大便がらみのいたずらで、だいたい3話に1話はその方面の話が登場しまして、読んでいる方としましてはレモン・ゼラニウムの芳香が常に鼻先を漂っているような錯覚すら感じてしまいます。
 印象に残っているのは、「第72話 オイレンシュピーゲルがブレーメンで客に出す焙肉に尻からバターをたらしたので誰も食べようとしなかったこと」です。
 まあ、おおむね副題が示している通りの内容なのですが、かんたんに要約しますと、

 ブレーメンでも数々のいたずらをもって有名になったオレインシュピーゲルは、道化として宴会に招待されることを常としていました。
 この宴会は参加者が順番に主催となって、焙肉やチーズ、パンなどをみなに振る舞っていましたが、もっともな理由もなしに欠席したものは費用を支払わねばならないことになっていました。
 いよいよ、その主催の順番がオレインシュピーゲルにもまわってくると、彼はバターをひとかけつまんでお尻の穴に入れて、そのまま肉を焙っている火の上に突き出して、たらたらと垂れてくるバターをたらしだしました。
 なにしろ稀代のいたずら者のことですので、どんな料理を出されるか知れたものではないと不安に思った出席者達は、この光景をのぞき見しており、みんな欠席してしまいました。こうしてオレインシュピーゲルはまんまと会を開くこともなく、代金をせしめることにも成功したのでした。

 正直、悪ふざけというイメージが先行しまして、素直に笑うことの難しい話にも思えます。
 けれども、訳者の阿部謹也はこの話には、当時の友愛団などの同業者組合のありよう批判する意味合いがこめられていると語っており、なるほど職業を完全に組合員だけで固めて、他者の侵入を拒むことで自らの地位を守るとともに、逆に動脈硬化を起こしていった徒弟制度は多くの人々を苦しめていた中世・近代ドイツの病弊の一つでもありました。
 やはり訳者の解説によりますと、この焙肉の話は一つの例として、オレインシュピーゲルのそれぞれの話は、当時の身分制社会を背景として、それを笑い飛ばそうとする意味合いが強いとのことです。
 不可蝕賤民などの弱い立場にあたる人は、世襲的にその身分を脱却できないというのは、ヨーロッパにも見られた身分制度であり、そうした地位にいる人々は、せめてこうした笑話で笑い飛ばすことでしか自らの置かれた環境を批判することもできなかったのでしょう。
 そして、こうした笑い話が現在においても、わずかでもアクチュアリティを保ち続けているということは、即ち中世的な身分制度から私達人間が脱却しきれていないということなのでしょう。
 それこそ考えてみれば、一つの長いコメディなのかもしれません。

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