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麒麟天に還る

 乾隆帝といえば、清の最盛期に冠を拝した皇帝です。その功罪は相半ばとしましても、国内の人口が爆発的に増加し、『紅楼夢』『聊齋志異』が刊行され文化の隆盛が頂き近くの高みにまで達したというのは一つの事実であるでしょう。
 この乾隆帝が代を譲られ、皇帝の座についた初年に麒麟が現れたのだといいます。
 麒麟といえば、瑞獣の代表格、メーテルリンクの幸せの青い鳥は個人に幸福を運ぶ鳥ですが、規模効能を遥かに凌駕する幻の獣です。中国では、歴史に大きな事績を残す時代には、必ずといっていいほどその姿が確認され、例えば孔子の母親はこの麒麟の足跡に触れた故に我が子を身ごもったなどという話も伝えられております。
 この乾隆帝時代の麒麟来臨を伝えるのは大田南畝、別号蜀山人が現代まで知られる、狂詩狂歌随筆で聞こえた、やはり一代の麒麟児です。
 そうして、この麒麟児という単語を眺める時、私は一人の立川談志という噺家を連想せずにはいられません。
 立川談志。天衣無縫の芸人。破天荒な乱暴者。傲岸不遜な糞ジジイ。その姿、名前は、人の目に様々な姿となって現れていたでしょうし、またその一面一面はそれが全てではもちろんないでしょうが、一片の真実を写し出していたのも否定はできないことでしょう。
 たしかに、カメラやマイクを向けられた際の過剰なパフォーマンスは、時にファンですら目をそむけ耳をふさぎたくなる類のものではありました。
 けれども、それでも間を空けると再び話す言葉に耳を傾けたくなってしまうのは、多くの姿を見せながらも、何よりも大きく落語家立川談志が目に入ってしかたなかったからでしょう。
 立川談志という人は、まずはどうしようもないほどに落語家であった人間だったのです。
 そのどうしようもなさに、人一倍心を焦がせ、身を捩らせていたのは、談志本人であったかもしれません。どうしようもなく時にテレビタレントのような振る舞いをして、どうしようもなく政界に出馬したこともありました。けれども、その度ごとに、私達に写るのは、どうしようもないほどの一個の落語家でした。
 私は談志が出囃子を背に受けて高座に上がる姿が好きでした。深々と頭を垂れて、ふと上げた面にはにかみがある。笑みはなくても、どこかはにかんだ余韻が残る、その残響に他のなにものでもない落語家の生のままが見えて、身もだえしたくなるほどの嬉しさがこみあがってくるのです。
 麒麟の出現した場に、一堂に会した人々の味わった喜悦もかくやとばかりの高ぶりです。
 そうして思えば、自分の直観もまんざら見当違いというわけでもなさそうだと、ついついほくそえんでしまいます。
 麒麟は瑞獣です。自身の類稀なる貴重さもさることながら、この獣の真価は幸福と平安の兆しである点に発揮されるといえます。
 談志は多くの弟子を残し、さらにその挑発的かつ刺激的な姿勢で、落語界自体に大きな足跡を刻みました。これが以後の噺家の巨大な吉兆の萌芽とならないわけがあるでしょうか。
 そんな落語家が高座を下りた際に哀悼の辞や涙は似合いません。ただ満場割れんばかりの拍手で送り出すのが、客席にいるものの、せめてもの務めでしょう。

妖怪学のすすめ

 先日放送されましたNHKのテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」では、井上円了がクローズアップされておりました。
 井上円了は1858年生まれですから、明治維新から遡れば約十年、井伊直弼が大老に就任し日米修好通商条約が結ばれ安政の大獄と呼ばれる一斉検挙がはじまったという非常にあわただしい年にこの世に転がり出てきたことになります。しかし、主権は変われど同じ政府による思想弾劾である大逆事件まで、その間およそ五十年と考えますと、この十九世紀後半、いかに日本が激動の渦中にあったかがわかります。

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ユマニズムの二つの形

 澁澤龍彦は渡辺一夫が嫌いだったんじゃなかろうか。
 特に確証があるわけではないのですが、そう思うことがあります。
 渡辺一夫といいますと、『ガルガンチュワ=パンタグリュエル物語』の訳者として、戦前戦後の昭和という時代を代表する学者の一人と勝手に思っています。
 この人、澁澤龍彦が東京大学のフランス文学科に入った頃には、まだ教授をやっていたはずなのですが、澁澤の文中でまったく名前が出てこない。
 もっとも澁澤は辰野隆も鈴木信太郎も豊島与志雄も佐藤正彰も、要するにほとんどのフランス文学者に顔を出させないので、それだけで速断するのは根拠が足りないとは思います。それでも例えばヴィヨンの詩を紹介する際には鈴木信太郎の名を出したりと、先訳者への敬意をないがしろにはしないのですが、ところが『ガルガンチュワ=パンタグリュエル』を引用する時には、見事なくらいにそれがない。
 ちょっと手元に本がないのではっきりしたことがいえないのですが、例えば澁澤が『胡桃の中の世界』で紹介した15世紀イタリアのドミニコ僧フランチェスコ・コロンナの書いた『ポリフィルス狂恋夢』を、その和名も含めて紹介したのは渡辺一夫だった気がしますし、澁澤のように深くつっこんだ考証はありませんでしたが、先達として多くのオカルト知識を世に知らせた功績は確かにあったように思われます。
 しかし、やっぱり澁澤の文集に渡辺の名前はでてきません。
 そして、三島由紀夫との対談にて、

 三島 (前略)しかし、明治から以後は、鏡花もそうだけど、田舎者が文学の中心を占めて、田舎者の文学を押しつけてきた。田舎者が官僚になれば明治官僚になり、文学者になると自然主義文学者になり、その続きが今度はフランス文学なんかやっているんですよ。あなたじゃありませんよ(笑)
 澁澤 僕じゃない。もっと偉い人ですよ(笑)。

三島由紀夫、澁澤龍彦「鏡花の魅力」


 最後に東京生まれの澁澤の名前を出しているところから、生まれというよりは、明治以降の東京という都市のあり方が「田舎者」流であったと、三島の主張は汲み取れます。
 大江健三郎を通して、渡辺一夫に微妙な思いを抱いてらしい三島を思えば、このフランス文学者が渡辺を想定していたともとれます。
 澁澤のいう「もっと偉い人」というのも、この対談が行われた昭和43年当時、東京大学を停年退官後立教大学、明治学院大学の文学部教授を務め、さらにパリ大学附属東洋語学校の客員教授も兼任していて、日本におけるフランス文学者の代表的存在であった渡辺を指すとしても、さほど不自然ではないように思われます。

 まあ、すべて私の勝手な下衆な憶測ではありますので、大きく見当を外していることを祈るばかりです。
 何故なら、渡辺一夫はもちろんのことながら、澁澤龍彦もまた戦後日本に大きな影響力のあったユマニストの一人であったと考えるからです。
 澁澤は言葉こそ過激でアジテートする部分がなかったとはいえませんが、闘争を先導するようなタイプではなく、むしろ寛容を説いていたように思えます。
 時に皮肉を交えて、冷笑すら見え隠れする文章はいわゆる、人道主義という誤った訳語の与えられている「ヒューマニズム」からは考えにくいですが、多くの芸術家を発見し称揚した根底には熱い寛容の心があった気がしてなりません。
 そうした人が、なにをきっかけとしてであれ、同じユマニズムの下で争うことほど哀しいことはないからです。

豊饒の棗

 一人の人物を起点として連想の環が次々とつながっていく様というのは、これはたいへんに面白く、何気なく読んでいた一冊の本から、思いもかけない人物名を見出したりすると、旧知にでも出会ったかのような喜びを覚えます。
 日本の作家において、この連想を広げやすいのは、なんといいましても夏目漱石と森鴎外でしょうが、鴎外は残念ながら現在では名こそ高くありますが、広く読まれている作家とはいいがたく、かつ文体もまた一見現在の流行からかけ離れているように思えますので、ひとまずここではおきます。
 もっとも、漱石といいましても、私の場合、その連想の端緒は山田風太郎となります。
 一般に忍法帖の作家として知られるこの奇想の作家は、漱石を信奉していると思われる節があり、特に後年の明治ものの中では頻繁に漱石の姿を描き出しています。それは漱石本人のこともありますし、「牢屋の坊っちゃん」のように漱石の文体をまねて一編を作り上げていることもあります。
 風太郎の小説作法は正史やそこに登場する人物にスポットを当てるというよりも、その陰となる部分、ちょうど記録の欠けた部分に手をかけて、それを大きく引き伸ばすというもので、少年時代の夏目漱石と樋口一葉が邂逅するだとかの、あったかもしれない人物相関を作り上げて、さもそれが事実であるかのような描き方をするところにあります。
 この方法は広く伝播して、現在でも多くの作家によって使用されています。
 その最も顕著な例は、関川夏央原作、谷口ジロー画による「『坊っちゃん』の時代」五部作でしょう。
 特にシリーズ名にもなっている第一巻はところどころに風太郎節が顔を出します。新橋駅のコンコースで漱石と安重根と東条英機が邂逅するなんてシーンはその最たるものといえます。
 関川夏央には『戦中派天才老人・山田風太郎』という風太郎のインタビューを構成したエッセイ作品一冊がありますので、この創作法はかなり自覚的なものだと思われます。
 そして、この関川・谷口に影響を受けたと思しい古山寛原作、ほんまりう画の『漱石事件簿』も、かなり風太郎色の強い作品となっています。そもそも半分以上を占める「黄色い探偵」のタイトルからしまして、山田風太郎のとある作品まんまですし、夏目漱石と南方熊楠という同い年の二人がイギリス留学の行き帰りの途上であるインド洋ですれ違うという表現も、風太郎の『明治波濤歌』の一編「風の中の蝶」のまんまです。(もっともこれは澁澤龍彦の「悦ばしき知恵」でも書かれているので、どちらを参考にしているのかはわかりませんが)
 まんまといえば、その南方熊楠の生涯を書こうとして途絶した山村基毅原作、内田春菊画の『クマグス』(後に『クマグスのミナカテルラ』として新潮文庫入り)は、「風の中の蝶」と筋立てが非常に似通っています。
 閑話休題。
 このように一人の人物から多くの連想が広がっていくのは、非常に大きな楽しみと喜びを与えてくれ、創作を志す人間としては、そこに新しい相関図を組み入れたいと技量もわきまえずに、ついつい大それたことを考えてしまいます。
 で、今年夏コミで出そうと考えているのは、夏目漱石の門弟のほぼ最末席に位置する内田百間の空白期間である昭和二十一年から二十五年の物語を風太郎手法で挑んだものであると申しましたら、しまった宣伝だったかと思われてしまうかもしれませんが、実はその通りです。

葡萄あまいかすっぱいか

 大正昭和の名弁士、漫談家、ラジオ俳優である徳川夢声の『戦争日記』昭和二十年(1945年)部を読んでおりますと、ふとある個所で目が留まりました。
 四月十三日金曜日のことです。五十一回目の誕生日にあたるこの日、夢声は旗ヶ丘立正学園におもむきます。学校工場として初めて軍需大臣から表彰された祝賀会をするにあたり、余興として呼ばれたのです。

 映画渡来話ヲシテ、別室ニ案内サレル。会社ノ重役連祝酒ニ大酔シテイル。監督官モ酔ッ払ッテイル。校長モ酔ッテイル。大変ナ騒ギダ。甘イブドー酒デ酔ッタノダカラ、大分荒レテイル。トコロテンヲ肴ニ、私モガブガブト飲ム。無理ニ飲マサレタノデアル。校長ハ日蓮宗大学ノ学長デモアルソウダガ、コノ坊サンハ中々面白イ。

 明治後半に日本に渡来した映画は、またたく間に娯楽として広まり、教育・啓蒙の手段としても用いられていくようになるのですが、その黎明期を夢声がどのようにとらえていたのか、非常に興味深いものがあります。
 ありますが、私が特に注目したのは「甘イブドー酒」という部分です。
 戦中、日本では多くの品が配給制となり、国民は非常に苦しい立場に追い込まれました。もちろんお酒もその一品目で、世の呑んべえ氏は日に一本の晩酌を確保するのにも大いに苦労することとなりました。
 その配給で葡萄酒が頻繁に出されていたらしいことは、他の作家諸氏の日記からも推察されます。
 なにしろ、敗戦の年のこと、物資難は逼迫し、その日食うものにも困るありさまの日々を送る状態ですので、まともなお酒が出るわけもありません。夢声の飲んだ葡萄酒もまともに醸成されていなかったのでしょう。そんなお酒を飲んだからこそ、「大分荒レテイル」ということになるわけです。
 この太平洋戦争中の葡萄酒については、昔論文に組み込んだことがあります。それがひさしぶりに目に入ってきてつい懐かしくなってしまいました。その論文はあんまり人目に触れるものじゃないので、かんたんに要約をば。
 まともに作られなかった葡萄酒について、作家の永井荷風も「断腸亭日乗」に書いております。昭和二十年三月七日の部に、

  隣組の媼葡萄酒の配給ありしとて一瓶を持ち来れり金二円五十銭味ひて見るに葡萄の実をしぼりたるのみ酸味甚だしく殆ど口にしがたし。其製法を知らずして猥に酒を造らむとするものなり。これ敵国の事情を審にせずして戦を開くの愚なるに似たり。笑ふべく憫むべくまた恐るべきなり。

 まさかお酒の醸成一つで国家的感覚まで云々されるとは国の首脳部も思っていなかったでしょうから、酒飲みの怨念こそ笑うべく憐れむべくまた恐るべきと申すべきでしょう。
 酒飲み作家といいますと、やはり内田百間先生を忘れることができませんが、その先生の戦中日記『東京焼盡』にもやはり葡萄酒は頻繁に顔を出します。
 最初に登場するのは、同じく昭和二十年二月二十三日で、

 中野が二十日の火曜日に帝国劇場の国民酒場から汲んで来てくれた葡萄酒が一合あつたので、行くとすぐに部屋で味利きをして見たらうまかつたから、その場でみんな飲んでしまつた。この頃の葡萄酒は酒石酸抜きなる由。長く置くと腐ると云ふ話也。

 国民酒場というのは配給のお酒では我慢できない人のために政府が設けたお酒の臨時配給所で、ここで抽選を行って当選すると、一合ほどのお酒がもらえたそうです。
 この後、百間はこの酒石酸抜きの葡萄酒を「生葡萄酒」と呼んでいくのですが、意外と多くの人々に不評なこのお酒に対して好意的な感想を述べていきます。同年五月三日の記述、

 配給にて大黒葡萄酒一本あり。甘味にて甘い所は珍しけれども、葡萄酒の味としては寧ろ酒石酸が抜いてあつても生葡萄酒の方勝れり。

 百間が葡萄酒の味を知らないとか、味覚音痴であるというよりも、ここに百間の過去というものへのスタンスを見る気がします。
 もとより、過去よりの伝統に耽溺することを自らの信条としたと「花火」で述べる荷風にとっては、粗雑な作り方を行う葡萄酒に我慢ができようはずがありませんでした。
 百間は「百鬼園随筆」などという作品を上梓しながら、「随筆が本来どうあるべきかも知らないし、単に音の響きがいいからタイトルに採用しただけ」と述べてしまいます。その百間からすればアルコールというだけで「無きに勝ること万々」ということになるのでしょう。
 どちらがよいわるいというのではなく、同じ随筆という手法をとりながら、まるで接点のなかった二人の視点の違いが、この葡萄酒という対象一つでも見えてくる気がします。